第168回演奏会(2000年1月)プログラムより
シューマン〜不器用な天才
---まずは、シューマンから始めさせていただきましょう。先生は,最初のリハーサルのときに,「お鍋の底」の記号(∪)を楽譜に書き込む場所などについて、かなり時間をかけて指示されましたね。これは,先生だけがお使いの記号だとか。
飯守 これは私独特のものかもしれません。この記号は、音楽のエネルギーの流れを
明確にするという意味で、いわば,音楽的な重心を表すものです。かんたんにいえば、一種のやわらかいアクセントといえるでしょう。この考え方は,ロマン派ではもちろん重要ですが、最近の古楽器の演奏などでも、同じことがいえますね。
---先生がこの記号を楽譜に書き込ませるのは,シューマンのときだけですか?
飯守 いいえ違います。先日大阪でやったバッハの「ロ短調ミサ」や、昨年のメンデルスゾーンの「エリヤ」などでも使いました。この記号には強調という意味もありますが、<(クレッシェンド)や>(ディミヌエンド)の記号、あるいはただのアクセントやスフォルツァンドでは表現しきれないようなものを含んでいます。この記号は,機械的に決めることのできない「時間的な何か」まで含んでいるのです。
---新響がシューマンの交響曲を取り上げるのは久しぶりになるのですが、この作曲家の難しいところはどの辺でしょう?
飯守 シューマンは、基本的にはピアノと歌曲の作曲家ですね。べートーヴェンのようなシンフォニックな世界よりも、もっとリリックで壊れやすいデリケートな要素が強いです。そのあたりを大きなオーケストラで表現するのが難しいですね。
---シューマンは,天性の交響曲作家ではなかったのでしょうか?
飯守 彼は、生まれながらにして持っていた自分の性格を犠牲にしても、ベートーヴェンなどが作り上げたいわゆる構築的なドイツ音楽の伝統を、自らの意志で受け継いでいこうとしたのです。だから彼の交響曲は、本能の趣くままに作曲されたのではなく、憑かれたような義務感をもって作曲されたと思います。その意味で、彼はとても責任感の強い人ですね。
---交響曲作家としてのシューマンを、どのようにお考えですか?
飯守 先ほども申し上げましたとおり、シューマンはピアノ音楽的な面が強いです。それと、言葉というものに憑かれて,素晴らしいリート(歌曲)を数多く作った人ですね。そうした彼が,4曲ものすぐれた交響曲を残したというのは,たいへんなことです。
その結果,彼はドイツ的な伝統を立派に受け継いだのです。しかし、その一方でシューマンは、自作の構成力の弱さを敏感に感じ取っていたでしょう。弟子のブラームスにも強いコンプレックスを感じていたようですね。もっともこれには,シューマンの妻クララとブラームスとの関係も絡んでいるようですが・・・・・
---ブラームスは、シューマンの交響曲をどのように見ていたと思いますか?
飯守 ブラームスくらいの人だったら、シューマンの交響曲の欠陥である,構成の弱さは見抜いていたでしょうね。たとえば、「ライン」の第4楽章などは、変ホ短調の中をいったりきたりするばかりで、結局のところ調性としてはどこにも発展しないですね。そういう点は,たしかに作曲としては欠陥がありますが、同時にこの楽章には,音楽として非常に深いものがあって、やはり聴く者をとらえずにはおかない魅力があるのです。これは,霊感という言葉でしかいい表せないようなものです。
---リハーサル中に先生は、「シューマンは歌が大切」とおっしゃいましたが、これはどのような意味でしょう。
飯守 たとえばベートーヴェンの場合は、基本的には器楽の作曲家だと思いますし、構築性ということが第一になってきますね。ブラームスになると,ベートーヴェンよりは歌の要素が入ってきますが、ブラームスはシューマンよりも,よりシンフォニックで楽器法がうまかった。こう見てくるとやはり、シューマンでは「歌」の要素が大きいのです。
---シューマンでは、オーケストレーション(管弦楽法)の問題が必ず取り沙汰されますが。
飯守 シューマンは、オーケストレーションだけでなく、楽器の使い方が全般的に下手ですね。彼のコンチェルトに例をとれば,ピアノ協奏曲やチェロ協奏曲ではまだ問題は少ないのですが、ヴァイオリン協奏曲になると、楽想は素晴らしいけれども、実際に弾いてみると明らかに無理があります。だから、どうしても「名曲」にはなり得ないような部分があるのです。シューマンは、個々の楽器の持っている性質や特徴を充分には理解していなかったのでしょうね。ピアノで弾けばきれいに響くけれども、他の楽器で弾くとよさが伝わってこないところがたくさんあります。ピアノ協奏曲の第3楽章のオーボエのソロなど、誰が吹いてもどうにもうまくいかないのです。彼のオーケストラ作品によくある弦楽器のキザミ(1つの音を細かく16分音符などに分解して奏する)でも、効果的でないことが本当に多いですね。
しかし、そのような構成的な欠陥がありながらなお、4曲の交響曲があれだけ素晴らしいということは、一種の奇跡ともいえます。さきほど、義務感や責任感と申し上げましたが、それ以上に、ドイツ的な音楽の伝統であるシンフォニックなものを彼が本当に愛したからこそ、こうした奇跡のような作品を生むことができたのではないでしょうか。
ヴィラ=ロボス〜ブラジル音楽とバッハ
---ヴィラ=ロボスはブラジル人ですが,1920年代にはパリに留学しているようですね。これはドビュッシーの少し後の時代で,フランスの六人組が活躍していた時代にあたります。ところが,ヴィラ=ロボスという人はちょっと変わっていて,パリに留学したのなら,印象派の影響を受けた音楽を書きそうなところですが,彼はバッハの影響を強く受けた作品をたくさん書いています。これはどういうわけでしょう?
飯守 彼は,ものすごくブラジルの音楽を愛していたようですね。しかしその一方で,無条件にバッハの音楽には降伏せざるを得ないと感じ取っていたようです。彼は,バッハとブラジル音楽のふたつを,努力によって一緒にしてしまったのですね。私はヴィラ=ロボスのその試みがとても成功していると思います。
---バッハとブラジル音楽というと,すいぶんかけ離れた音楽のような気もします。
飯守 バッハには「ロ短調ミサ」や「マタイ受難曲」のような人類全体に向かって発信された大曲もありますが,意外と世俗的な面もありますね。ふたつほど例をあげると,チェンバロの「イタリア組曲」やヴァイオリン・コンチェルトなどがそれにあたるでしょう。ところでヴィラ=ロボスは,バッハの音楽を「種族の間をつなぐ絆」といい、バッハこそ「広く世界中の民族音楽に深く根ざすもの」と発言しているようですね。私は、一見遠い存在にみえるバッハの音楽とブラジルの音楽とが,ヴィラ=ロボスの体の中では、そんなにかけ離れたものではなかったのではないかと思っているのです。いいかえれば、ヴィラ=ロボスは本当にバッハを愛し、ブラジル音楽を愛した。愛するという力は、これだけかけ離れていると思われる2つの要素でも結びつけてしまう…。愛があるからこそ、この作品のような創造的な奇跡が起こるのです。その点は、さきほど申し上げたシューマンの「奇跡」と相通ずるものがあります。
---しかし,ヴィラ=ロボスの管弦楽曲は,日本ではまだまだ演奏されないようですね。ところで、先生は今回のプログラムをどのようにお考えですか。ドイツ音楽にブラジル、日本と、国も時代もまったくいろいろでが・・・・・・
飯守 今回のプログラムは,ちょっと見ると,まるで違ったものを寄せ集めたようですが,実はそれぞれの曲(作曲家)に共通の要素があるように思います。
---それはどのような点ですか?
飯守 それは3人とも,強い義務感をもって今回演奏する作品の作曲に取り組んだということでしょうね。シューマンは,彼本人の個性に逆らってもドイツの伝統を受け継ごうとしたし,ヴィラ=ロボスと諸井さんの2人も,それぞれ,自分たちが生まれつき持っていたキャラクターとは別にドイツ音楽の構築性を追求し、それぞれの民族性と結びつけようと努力したところが共通しています。
諸井三郎〜「日本的作曲」とは?
---諸井さんという人は,作曲の理論や構成をとても重要視した人のようですね。
飯守 諸井さんより前の作曲家というと,成田為三や山田耕筰,信時潔のような大正時代に活躍した人たちですね。この人たちはどちらかというと,歌曲の作曲家です。そして諸井さんは,その次の世代にあたります。この世代は、日本の作曲にドイツ音楽などの構築性を持ち込むことが,ひとつの大きな課題だったのでしょう。
---諸井さんは,初めから音楽学校で正規の教育を受けたわけではないのですね。東大の仲間と昭和の初め(昭和2年)に「スルヤ(サンスクリット語で,太陽神という意味)」というグループを結成して,その仲間とともに,彼の作品を公開の場で次々に発表して、大きな反響を呼んだといいます。彼は、いわばアマチュアの作曲家としてスタートしているのですね。
飯守 資料によると,「スルヤ」の発起人は7人だそうです。その中のひとりに,中島田鶴子という人がいるのですが、その人がなんと,私の子供の頃のピアノとヴァイオリンの先生なのです。当時にしてみれば日本人離れした、ヨーロッパ的なものを感じさせる方でした。しかし先生にしてみれば,私はあんまりまじめな生徒ではなかったでしょうね。中島先生には,私の兄や姉も習っていましたが,「飯守さんのご家族は、さらわずにうまくなろうとなさるのネ」とさんざん嫌味をいわれました。今なら「技術というのは、さらわなくて上手くなるためのものです」なんて反論するところですが(笑)。
---それは奇しき縁ですね。
飯守 しかし、どうして「スルヤ」のメンバーに中島先生が入っているのでしょう?今から考えると、とても不思議です。
---諸井さんご本人(1977年没)と飯守先生とは,面識はありませんでしたか?
飯守 残念ながらありません。しかし,彼の本で勉強をしたことはあります。「機能和声法」はいい本でした。この本は和声を色彩としてではなく、ひとつの力学的な視点でとらえていました。つまり、和声というものが、例えばワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のように、聴く人を完全に束縛してしまうような作用を持っているという考え方ですね。その他には,「音楽形式論」という著作もあります。
---作曲家としての諸井さんについては,どのようにお考えですか?
飯守 諸井さんは、シューマンやヴィラ=ロボスのような古今の西洋音楽の作曲家に比べて、知性が先にきているという気がします。話がそれてしまいますが、私は、ヨーロッパ人と日本人では,脳の使い方が違うのではないかと、常々感じています。ヨーロッパ系の人は右脳の使い方が上手いですね。シューマン、それからヴィラ=ロボスにしても、実にひらめきが豊かです。ところが日本人は,偉い人ほど「左脳の人」です。諸井さんも,その意味で,左脳の影響力が強い人なのではないかと思います。
---諸井さんの交響曲第3番については,いかがでしょう?諸井さんはドイツ帰国後の1938年に,まず,交響曲第2番を作曲していますが,このシンフォニーは,ソナタ形式,フーガ,三部形式などの西洋音楽の手法で作曲されているようです。しかし,この後,諸井さんは「日本的作曲」ということをいい始めていますね。諸井さんは交響曲第3番で,非西洋的な構成原理の追及をしたようですが,この試みは成功していると思いますか?
飯守 難しい質問ですね。諸井さんは,2番の交響曲では2つのテーマ(主題)を使って作曲しています。この時点ではまだ、西洋音楽の伝統的な形式を追求していたのでしょうね。ところが,3番になると、第1楽章の形式がソナタ形式とはちょっと違ってきて、お弟子の柴田南雄さんの解説によれば,「主要なテーマは1つしかない」ということになっている。諸井さんは,東洋的な考え方の根本には,一元的なものがあると考えていたのかもしれませんね。あえていえば,この辺が東洋的,または日本的といえるでしょう。しかしこの曲で,それが徹底して実現できているかというと,一種のあいまいさが残っているように思います。私には、やはりこの楽章には2つの主題があるように見えてしまうのです。
---理屈が先行しているような感じがするということでしょうか。
飯守 諸井さんは論理的なものを重視するあまりに、それが創造の足かせになったような部分も、もしかしたらあったのかもしれません。諸井さんは,日本の民謡からテーマを取るようなことを決してしない人ですね。ところが,それはいいとして,諸井さんの血のようなもの,いいかえれば,心の底から噴出するようなもの、あるいはとんでもなく風変わりなアイディアの面白さ、というようなものが、今の私にはまだあまり感じられないのです。ただ、演奏会当日まで練習を重ねて行くと、またこれから色々な違う部分が見えてくるのかもしれません。
---この交響曲第3番は,戦争中の作品です(1943〜44年)。戦後の諸井さんは、音楽教育に深く関わったりして,作品の数が極端に少ないですね。もしかしたら,諸井さんは,交響曲第3番で「日本的作曲」に行き詰まって,作品が書けなくなってしまったのでしょうか?
飯守 必ずしも,そういうことでもないでしょうね。世の中には、行き詰まったからといってやめてしまったらできないことがたくさんあります。その程度のことで挫折してしまうのなら,とてもこの交響曲のような大きさを持った曲は書けないでしょう。私は、諸井さんはそういう人ではないと思います。
しかし,昨年,新響で取り上げた深井史郎さんにしても,今回の諸井さんにしても、もっとたくさん曲を書いてほしかったですね。これだけは,とても残念です。
(構成・まとめ/長島良夫、吉川具美)