2004年4月演奏会パンフレットより
エッセイ 石井先生の思い出
■石井眞木さんと打楽器
今尾 恵介(打楽器)
邦人作品を取り上げることの多い新響で打楽器をやっていると、さまざまな特殊楽器とつき合うことになるが、中でも石井眞木さんの曲は特別だ。今回の「幻影と死」で使うラカタカ、チェンチェンなどという楽器にしても、私は見たことも聞いたこともなかった。
それでも、特殊楽器をいつもお借りしている「プロフェッショナル・パーカッション」では全部揃います、という。すごい品揃えと感心したものが、実はここの社長・貞岡幸男さんに聞いてみると、そもそも作曲中の石井眞木さんが来店して選んだ楽器なのだそうだ。
貞岡さんと石井眞木さんは長いつき合いで、作曲中に「こんな音がほしい!」と煮詰まったときによく電話してきた、という。その後で必ず店に来て世界各国から集められた多種多様な打楽器を試し鳴らしていく。録音道具一式を携え、楽器名をマイクに向かって「ナントカ!」と叫んだ後、グワシャーンとかチリチリなどと鳴らして録音、それを持ち帰って再び五線紙に向かうのだ。
ラカタカという楽器はギニアやセネガルなど西アフリカの楽器で、V字形をした木の1辺にたくさんの輪が通してある(一般にはラカタクと表記)。眞木さんは、平清盛が亡霊に悩まされる場面に「ガシャガシャした音がほしい」と、いつものように来店。そこにあったのは、15年ほども前にアフリカ人が持ち込んだ特大のラカタクで、これがイメージにぴったり、と採用したのである。亡霊はともかく、アフリカでもやはり宗教的な場面で使われるそうだ。
チェンチェンはインドネシアのバリ島の楽器。これはガムラン音楽で使う。ガムランはジャワやバリの舞踊や演劇の伴奏に多く用いられるものだ。木彫りの亀の上に小さなシンバルが5つ6つ付いたもので、同じような小シンバルで叩く。その名の通りチェンチェンという音とカポカポ音が混じった独特な響きだ。このチェンチェンと日本の(もとは大陸渡来の)チャンチキ、アフリカのラカタクが一緒になると、民族音楽の囲いから抜け出して、まさに眞木さんの音の世界になる。
石井眞木さんが特殊な打楽器を使うことについて、貞岡さんは次のように語る。
「既存の弦楽器などで特殊奏法をするのは奇を衒うようなもの、という考え方が眞木さんにはあって、それより頭の中にある明確なイメージを実現できる打楽器を使った方が自然で、はるかに効果的だということを確信していた」
今回は「マジックボール」が使われる。タムタムの表面をこすって人の声のような不思議な音を出すものだ。こんな奏法を打楽器奏者の山口恭範さんが初めて知ったのは1960年代、ルイジ・ノーノの曲だったかな、という。山口さんは、石井眞木さん指揮のベルリン芸術週間に新響が参加した際にソリストとして出演、2002年の伊福部昭さん米寿記念演奏会でも吉原すみれさんとともに特別賛助出演していただいた。
やはり石井眞木さんとは長年のつき合いで、マジックボールのことを知った眞木さんが面白いと取り上げ、以後の作品にはよく使われている。マジックボールとは実はスーパーボールのことで、眞木さんが「勝手に」命名した、という。
眞木さんは名前や素性のわからない楽器によく名前を付けた。山口恭範さんがかつて眞木さんとブラジル・アメリカのツアーをしたとき、ホノルルで食事がてら外出した際に丸太をくり抜いた「ログドラム」を発見、カヌー大の巨大なものから小さいものまであったが、適度な大きさのを4つほど買ってきた。これを眞木さんは「ハワイ空洞太鼓」と命名したのだ。ログドラムと言ってもさまざまなので、これなら実感が湧く。
隠語的なものも多数生まれるようで、山口さんと眞木さんの間なら通じる、という楽器名には「ガシャガシャ」とか「キンキラ」などいくらでもあるらしい。そんな奏者と作曲者の間柄の中から、音楽がまさにコンテンポラリー(同時代的)に生まれていったわけだが、作曲者亡き後、その事情を知る演奏者がいなくなれば、作曲者の意図した音とだんだん違う音楽になっていく可能性もある。しかしそれもまた面白いじゃない、と包容力のある作曲家は天上で笑っているのではないだろうか。
眞木さんは演奏家をとても大事にする人だった。山口さんのお話では、演奏家と一緒に飲みに行くときも、演奏家には払わせなかったという。払わせてくれと頼んでも絶対にダメ。これは「演奏家を大事にし、気持ちよく演奏してもらうこと」という師・伊福部先生の教えではないか、という。
新響の練習の際にもたくさんの打楽器の間を分け入り、楽器の鳴らし方についていろいろと教えていただいた。お経をあげるときに鳴らすキンもよく作品に登場させたが、こちらで調達したキンの音はいま一つで、まばゆい光を放つ眞木さん所有の純金(?)のキンを持ってこられ、これを使って! ということもあった。音のイメージは明確だった。
つねに「響き」について鋭敏であり、それを積み重ねて宇宙的な音の空間を作り上げる自らの使命にのみ忠実で、決して先生然とはしていなかった。だから僭越ながら「眞木さん」などと書かせていただいたのだが、貞岡さんも「楽器好きの子供みたいな人だった」と話していた。
本日は、そんな眞木さんのイメージした音楽空間に少しでも近づくように努力したいと思う。
■「本質」の継承者−道を伝えて己を伝えず−
松下俊行(フルート)
「宗論はどちらが勝っても釈迦の負け」という川柳がある事を最近知った。なるほど。
仏教に限らない。偉大な創始者・指導者の死後にその生前の言動を巡って様々な解釈が発生し、時に相容れないほどに対立する事がある。だが双方の論拠の淵源を訪ねれば必ずその創始者に行き着く。これが継承という行為の宿命であり難しさだろう。結局最も重要なのは、亡き創始者の言動という「形」ではなく、その根幹を貫く「本質」を如何に的確に掴み、変転する時空の中で活きたものとして着実に次代に伝えるかである。石井先生が新響に遺されたものを考える上でこの「本質の継承」という観点を無視できない。
ここで敢えて新響に於ける「邦人作品」を俎上に載せ、それを軸にこの論を進めたい。
1976年の「日本の交響作品展」で、芥川先生と新響はわが国の管弦楽黎明期と言える戦前・戦中の作品を初めて取上げた。「埋もれた作品」を音にする為に、様々な「作品へのアプローチ」が図られたが、中でも特筆すべきは、当時健在だった作曲者の殆どが、練習に立会って時に自作を指揮し、時に作品を加筆さえして、楽員との様々な共感の中で演奏を創り上げるという、望外の成果を得た事である。これこそ「作品への真摯な取組み=音楽への愛情=アマチュアの本質」という、芥川先生が提唱された精神の具現化へのひとつの道だった。
以後、邦人作品はそのアプローチの重要な要素である「作曲者との共感」を演奏に反映し得るという点で、特別の位置づけとなった。ここに邦人作品の、他に代え難い「本質」があり、演奏者にとって悦びの源泉たるものがあるからだ。その後も様々な作曲者達との交流を築き、演奏を重ねたが、その蓄積こそが今も団の財産である事は論を俟たない。
ところが芥川先生の没後数年を経て、新響自身の手に「邦人作品」が委ねられると、それは変化を来した。「邦人作品」の出発点であったとはいえ、演奏されてきたこの分野の作品全般を見渡せば、あくまで一区分に過ぎなかった「戦前・戦中の作品」が絶対視される・・・おのずから「存命作曲家の作品」という条件は困難になり、実際顧みられなくなった。これは実に重大な変化だったが、当時は気づく者も無かった。
1996年の創立40周年記念演奏会では、76年の作品展とほぼ同時代の作品が二夜に亘って演奏されたが、存命だったのは松平頼則氏のみ。しかも同氏が自作の演奏を拒まれるに至り、「作曲者との共感」を手にする事自体が不可能となり、あるべきアプローチは望むべくもなくなった。20年前と同工異曲の企画は、時間の経過と環境の変化の中で、団外からの評価とは別に、演奏者にとっての意味と意義を明らかに変質させていた。結局我々は、変質する「形」を追っていただけではないだろうか?
これ以前、すなわち芥川先生の没後1991〜93年までの新響との活動期間、石井先生は一貫して自作を含めた同時代人の作品演奏に努められた。演奏の対象に如何に取り組むかに日々腐心する団員にとって、作品の創造者と時空を共有し、その謦咳に触れる事は常に無限の刺戟と意慾をもたらす。作品は確実に演奏者の血肉となり、そうした経過を辿った演奏こそが聴衆に真の感動を与えるという事を確信されていたように思える。それはかつて芥川先生と新響が、邦人作品の演奏を通じて体現していた本質の継承であった。
実際、「現代の交響作品展91・92」や翌93年のベルリン芸術週間参加によって松村禎三・一柳慧・藤田正典という戦後日本を代表する作曲家各氏との交流(特に一柳氏とは自作自演でピアノ協奏曲を共演)を得られた。また作品公募というアイディアは気鋭の夏田昌和氏を知る契機に発展した。更に様々な第一級の演奏家との共演・・・恐らく継続すれば本質を見失う事もなく、活動の柱として充実・発展を期待できた筈だ。が、当時の新響が先生のもたらされたもの(その作品を含めて)の真価を充分に理解していたとは必ずしも言えない。94年以後は新響自身の選択で前述の記念演奏会に向け、邦人作品の捉え方も転換した訳だが、同時にその「あり方」への疑問も生み出していた。そして演奏会の前後から「新響の『邦人作品』とは何か?」を基盤としたあらゆる「宗論」が猛然と沸き起こるに至る。
2002年5月の「伊福部昭米寿記念演奏会」は石井先生と新響との、長いブランク後の最後の共演となった。伊福部門下の錚々たる人々が多彩な作品を寄せて一堂に会したが、先生の意向を反映し、その全員が練習に参画する方法が保たれた。論争に疲弊していた新響はそれまで見失っていたものを、そこで明確に思い出したのだ。「作曲者との共感」を反映させた演奏という、あるべき、そしてかつてあった姿を先生は行動で示された訳だ。
以来新響はこの方法を信じている。既に湯浅譲二・安部幸明の両氏の作品を取り上げ、まさに「生きた」練習を通じて演奏する悦びを、その最も深い部分で享受しているが、これこそ芥川先生から石井先生を通じて受け継がれた、作品へのアプローチのあり方である。今後もこれは揺るぐ事はなく、これある限り両先生は新響の記憶に生き続け、その作品は常に共感を以って演奏される筈である。
石井先生は常に新響と芥川先生の遺志を第一に考えられた。今も想像する事がある。
先生が手を差し伸べられた当時の、指導者亡き後の新響の窮状。その卓抜した企画力と行動力。ベルリン芸術週間への参加という新響への最大のプレゼントをもたらした手腕とその影響力・・・どれひとつでも石井眞木という個性をこのオーケストラに強烈に反映させ、席巻するべき武器たり得た。芥川先生の遺されたものを一掃し、カラーを一新してしまう事さえ可能だった筈だ。枚挙に遑が無いほどそうした例に世は満ちているのだから。
だが、先生は無私・無欲で我々に接し、その時々で最良の方法を示し、実行された。芥川先生が提唱されたアマチュアの精神の深淵を捉え、咀嚼して、新響に対してはその継承・発展の最上策を常に提案しながら、自分のカラーを決して押し付けない・・・「道を伝えて己を伝えず」という優れた伝道者のみが備えるこの姿勢こそ、石井先生個人の本質だったとの思いを今も禁じ得ない。