2004年7月演奏会パンフレットより


渡邉康雄/ウラディミール・オフチニコフ 対談

北の大地に思いを馳せて・・・

暑い夏の一日、北欧・ロシアの涼しい風が吹く?
シベリウス作品に造詣の深い渡邉氏と、82年のチャイコフスキーコンクール最高位に輝いたオフチニコフ氏のお二人に、シベリウスへの愛、ラフマニノフへの愛を存分に語っていただきました。

■「音楽教」の家庭

渡邉 オフチニコフさんとの共演は2年前の秋、新響と長野でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏して以来になりますね。あの時は、本当に感動しました。あの後、去年の夏に僕のやっている岡山県上斎原(かみさいばら)での「21世紀にはばたくピアニストたちのサマーキャンプ in 上斎原」にお越し頂いて、なんとスクリャービンの練習曲全曲と、ラフマニノフの練習曲4曲とソナタの2番という、ものすごいハードなプログラムのリサイタルをしてくださった。内容の充実度も素晴らしくて、僕がここ2、30年で聴いた本当に最高のリサイタルでした。あんなに拍手したのは、ロストロポーヴィッチ初来日とかミケランジェリの初来日の時以来です。それだけのインパクトがありました。

オフチニコフ(以下オフ) ありがとうございます。渡邉さんとは長いお付き合いで、仕事の上での同僚というだけではなく、友達でもあります。
 ミュージック・キャンプにもお呼びいただいたことは本当に光栄ですし、今年の春に倉敷で行われた「第5回若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」に審査員として参加させて頂いたことは本当に感謝しております。

―― 渡邉さんはピアニストでもありますから、今回はピアニスト同士の共演になりますね。お二人が音楽家を志したのは、どんなことからだったのですか?

渡邉 他に食う道が何もなかったから、もうそれしか無かったからですね(笑)。

オフ そうですね。音楽家になるということは多くの場合、自分で決めることではなく、親が決め、導いてくれるものなのです。幸いにも私たちの家族は音楽一家でしたので、自然に音楽への道へ導かれることになり、最終的にその道を選んだのです。子供の時の印象はとても強いものです。私は母が演奏しているのを見て、そうなりたい、演奏がしたいと思いました。

渡邉 実感としてよくわかりますね。父方の祖父は牧師だったのですが、家では四六時中音楽が鳴っていて、父(指揮者の故渡邉曉雄)は口癖のように「うちは音楽教だから」と申していました。それを子供心に「全くその通りだ」と心の底から信じて、その言葉が染みついちゃった。だからまったく何の迷いもなく、他に選択枝があるなんていうことさえ考えずに、そのまま音楽の道に入ったのです。

オフ お爺さまは牧師さんだったのですか?

渡邉 そうなんです。フィンランド人の牧師が当時東京にいて、祖父はその牧師に弟子入りしました。それなら自分の国に来ないか、と言われて明治時代の末期、船でフィンランドまで行ったのです。それでむこうで結婚して、日本に帰ってきました。ですから、私の祖母はフィンランド人になります。

オフ ところで、もともとピアニストである渡邉さんはなぜ、指揮もはじめるようになったのですか。

渡邉 やっぱりすごくやりたかった。それだけですよね。30歳を越えた頃、親父に内緒で、徳島交響楽団の当時の事務局長に「どうしても指揮をやりたいんだけれども振らせてくれないか」と、誰にも相談せずに手紙を書いたんです。そうしたら、その事務局長がびっくりして、うちの親父に電話をかけてきた。「おたくの息子さんからこういう手紙がきた」と。
 それで、50分だか1時間だか長電話をした末、息子がこういう思い切った手紙を書いたのであれば、それは本当に真剣なのでしょうから、何かしてやれることがあったら嬉しいと言ってくれたんです。それでそのオーケストラを振らせてもらったのが、そもそもの始まりです。

オフ その時のプログラムは覚えていらっしゃいますか。

渡邉 最初がハイドンの交響曲「軍隊」。その後に僕の弟がラフマニノフの2番コンチェルトを弾いて、最後がワーグナーの「タンホイザー」序曲。序曲で演奏会をしめくくったんです(笑)。
 オフチニコフさんは指揮者を志そうとしたことはありませんでしたか。

オフ いえ、ありません。指揮者になろうと思ったことはありませんが、作曲家になりたいと思ったことはあります。でも即興演奏すると、どうしてもモーツアルトやベートーヴェンのような音楽になってしまいますね。やはり、いつも弾いているものの影響が強いのだと思います。
 その一方で、私はビートルズとか、レッドツェッペリン、ディープパープルといったヘビーメタルを聴いて育った世代です。Smoke On The Waterとかね。ソ連時代だったので、そういう音楽のレコードを輸入するのはすごく難しかったのですが、なんとか手に入れて、よく聴いていました。
 チャイコフスキー・コンクールの1ヶ月前まではディープパープルを演奏していたんですよ(笑)。バンドでベースとキーボードを担当していましたからね。1982年のコンクールの時ですから、ソ連時代のまっただ中です。

渡邉 中村紘子さんの著書「チャイコフスキー・コンクール」(中央公論新社)の中で、1982年のあなたのことを「黒い髪に黒い瞳、ちょっとバレエダンサーのようなセクシーな容姿」と書いてあるのですが、その理由がたった今わかりました(笑)。
 僕は高校時代(東京芸術大学附属音楽高等学校)では作曲科にいたから、何曲か書いているんですよ。そもそもアメリカへは作曲で留学して、いくつか作 品を書きました。でも、作曲家は才能が無いとできないのはもちろん、才能以上に欲が無ければできない。どうしても書きたいという意地というか、欲がなければ、あの世界は無理ですね。
 僕はむしろ、他の作曲家がものすごく好きだった。ラフマニノフの3番コンチェルトとかね。シベリウスも素晴らしいし。それで演奏の方に気持ちが向いていきました。でも親父は死ぬ時まで「康雄が作曲してくれたらなぁ」って言っていましたね。
 今回のラフマニノフの3番コンチェルトは名曲中の名曲ですが、ピアニストにとっては大変な難曲でもあるんですよね。

オフ これは難しいコンチェルトというだけではなく、ラフマニノフのベースになっていると思います。ラフマニノフの曲は5つのコンチェルトを含めてピアノ作品は全曲やりましたけれど、これが一番難しいですね。難しいだけでなく一番美しい。もちろん肉体的な訓練も必要ですけれども、それ以上に心の準備、それも単なる情緒的な心ではなく、全人格的な精神の準備が必要になってきます。
 先日、演奏のためアメリカに行きましたが、今回の演奏会に向けて精神的な集中を高めるためにラフマニノフのお墓にも行きました。ニューヨークの西のケンシコ墓地にそのお墓はあるのですが、今回の演奏会が上手くいきますようにと、ラフマニノフにお願いしました。
 ラフマニノフ作品の演奏にはいろいろありますが、私はラフマニノフ自身が演奏した印象がとても強いのです。もちろんラフマニノフ本人のように弾くことはできませんけれども、それに一歩でも近づけるような形で弾かなければならない、そういう気持ちが大事だと思っています。

渡邉 アシュケナージが初めて日本に来た時の最初の演奏会がラフマニノフの3番コンチェルトで、親父の棒だったのね。日本フィルハーモニー交響楽団となんですが、日比谷公会堂での演奏会で、あのころ僕は中学校2年か3年だったと思います。家で親父が勉強しているわけです。あの音楽会以降、僕は3番コンチェルトに夢中になりましてね、アシュケナージが20代の頃の演奏を、レコードを含めて、それこそ何千回と聴きました。

オフ アシュケナージ先生が来日された時にお父様が指揮をされたのですね。今伺って驚きました。それは素晴らしい、そんな歴史があったのですね。
 そうそう、僕にはラフマニノフの演奏では、嫌な歴史、失敗談があるんです。
ラフマニノフの4番のコンチェルトの時です。演奏会場は第二次大戦の時に焼けてしまったオランダの大聖堂を改修したところだったのですが、そこはちょっと床が傾いていたのです。演奏中、ドイツ人の若い指揮者の背中が2回ピアノにくっついたんです。まず1回目にピアノが少し傾き、2回目には大きく動きました。1500人の聴衆が一瞬どよめきました。私にとってもショックでした。舞台からピアノが落ちれば、10人は死ぬかもしれないと思い、片手で止めて、片手で弾いて(笑)。こっちの手では弾きながら、こっちでの手ではピアノを舞台に戻そうと、とにかく懸命でした。こういうのは「火事場の馬鹿力」とでもいうのでしょう。若いドイツ人の指揮者は動転して、彼の顔は、ちょうどケチャップのような色になっていました。
 第1楽章が終わった時、私は右側のストッパーを止めて、指揮者が左側のストッパーを止めて、聴衆は大歓声、大拍手でした。固定した後、私はピアノを殴ってやりましたよ。もしピアノが落っこちたら、私は世界で1番有名な「人殺しピアニスト」となっていたでしょう。

■シベリウスからの手紙

―― 今回演奏する「タピオラ」や交響曲7番は、シベリウス作品でも後期の作品とされますね。シベリウスの晩年の状況は、どのようなものだったのでしょう。

渡邉 私は晩年のシベリウスがどういう状況だったということを、まだきちんと把握していません。「タピオラ」と7番はフィンランドが独立した後の作品で、これらを書いてから30年以上何も書かずに過ごして、それで死んでしまった。それが何でなんだろう、といろいろと模索しています。彼にとっては最後の作品群ですが、決して晩年ではない。どうも書けなくなってしまったらしいのですよ、当時のフィンランド全体を覆っていた厭世的な雰囲気もあってね。倦怠感に覆われたのでしょうか。
 ここで親父の話をするのは非常に恐縮なのですが、彼が一番好きだったのは4番と7番の交響曲で、特に7番が好きだった。彼の70歳のバースデー・コンサートの時にわざわざプログラムに入れたりしました。
 ただ、彼は7番で演奏会を終わらせることはしませんでした。でも、僕はあるオーケストラで7番で終わりたいと言って、すごく上手くいった経験がありましてね。一番最後の「シ」「ド」と終わるところを、G線で弾いてくれって言ったのですけれど、あの感動はいまでも忘れられません。

オフ やはり、渡邉さんの中では、シベリウスの存在は特別ですか。

渡邉 そうですね。シベリウスに夢中になっている理由として、渡邉曉雄の長男だということは大きいですね。彼はフィンランド人と日本人の間に生まれたわけです。やはり、相当数奇な運命をたどった人ですね。
 昔、東京でタクシーに乗った時、運転手さんに「日本語上手ですね」って褒められたことがあります。そのくらい親父と僕がいっしょにいると、日本人に見えなかったのですね。親父は相当な苦労をしたこともあって、だからこそ、彼はむしろフィンランド人の血を引いているということを一生大事にして生きた人だと思うのです。
 90年に親父が亡くなる33年前、1957年にシベリウスは亡くなりましたが、シベリウス本人から父に手紙が来たこともありました。ちょうどうちの親父がいろいろなシベリウス作品の初演を手がけていた頃で、それでシベリウスに手紙を送ったら、ちゃんと返事がきたのです。
 だから初めて新響とやらせていただいたシベリウスの2番なんて、「渡邉家の家宝」みたいな気持ちが私にはあります。
 フィンランド人と日本人のハーフの男がフィンランドに行って、フィンランドのオーケストラとフィンランド語で練習して、シベリウスを振ってみんなから尊敬されたということは、これからも、ちょっとないのではないかと思います。そうした血は、大事にしたいと思っています。

オフ フィンランドにはお祖母様のつながりで、親戚はいらっしゃるのでしょうか。

渡邉 いますよ、僕の親父の従兄弟が生きています。今でもコンタクトはとっています。ラフマニノフの生まれたセミョノフ(ロシア帝国首都ペテルブルクの南、約100km)と、フィンランドのヘルシンキやカレリア地方とは距離的にわりと近いですよね。気候の感じ方だとか、太陽の見え方とか、緑の雰囲気などは、ラフマニノフとフィンランド人のシベリウスとは、自然観などは非常に近いのではないでしょうか。

オフ そうですね、自然の風景などは同じだと思います。ラフマニノフも1917年に始まった革命後、モスクワからペテルブルクに移されて、しばらくフィンランドに滞在してからアメリカに行きましたしね。
 革命の中で、彼のピアノも破壊されてしまいました。彼はブルジョワだと見られていたんですね。ラフマニノフは革命前、ロシアでも非常に人気があり、演奏会収入などでお金持ちになっていたのです。彼はロシアで車とトラクターを買った最初の一人です。
でも、革命が始まって全部失いました。それ以降、二度とロシアに戻ることはなかったのです。ソ連政府に追い出され、二度と祖国に戻れなくなってしまったにもかかわらず、第二次世界大戦の時はドイツ軍に対抗できるよう、ソ連に資金援助をしたりしました。
 ピアニストのモイセヴィッチが出演しているドキュメンタリー映画をイギリスで観たことがあります。その中で彼はラフマニノフに「ロ短調の前奏曲(作品32 −10)に込めた気持ち」を聞いるのですが、ラフマニノフは、「この曲には、二度とロシアに戻れない私の気持ちが込められている」と答えていました。
 私にはその言葉が、いまでも強く心に残っています。

進行:土田 恭四郎(テューバ)
ロシア語通訳:宮副 栄一郎
構成;森 創一郎(フルート)


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