2005年7月演奏会パンフレット掲載予定
「君、知らないの?」 〜今に活きる矢代先生の教え〜
同志社女子大学音楽科講師 土田京子先生に聞く
― 本日はお忙しいところありがとうございます。土田京子先生は、東京芸大の作曲科で矢代秋雄氏に教えを受けられたと伺っております。先生との出会いはどのようなものだったのですか?
出会ってはいけなくて出会ってしまったということでした。(笑い) なぜかというと、矢代先生の弟子にしてもらうはずではなかった。本当に偶然でした。
― これは面白そうだ。(笑い) どういうことなのですか?
東京芸大の作曲科・池内友次郎クラスの様子をお話しなくては。御大、池内先生の許に、その手元から育って既に芸大講師になっておられる方々が何人かおれらまして、受験生のほとんどは御大直接、又はこの講師の方々に教わって入試を突破してくる訳です。ところが私は、芸大の先生にはなっていない方に入試の指導を受けて入った。これは大変珍しいことでして、具体的には“池内預かり”と言うことで、時々は池内先生のところに通いつつも、毎週私を本当にしごいて、実際の力を付けて下さったのはミスターXだった訳です。そういう子は、いざ大学へ入った時点で、4年間の引き受け手を探す羽目になります。この年は私を含めて3人の“みなしごハッチ”がいたのです。そこで池内先生が「お前たち3人、○○の所へ行け。」とおっしゃった。ところが私、この○○先生という方が絶対、ダメだった。先生と生徒と言うものは相性がよくないと、ホント悲劇なんです。あの先生の許で4年の学生生活となると、まず、保たないナと確信があった。で、必死で池内先生にすがった。「申し訳ありません。○○先生が立派な音楽家だと言うことはよーく解っています。でも、私ダメなんです。」と。新入生の分際で、割り振られた先生を拒むなんて、とんでもないこと。でも、池内先生は偉い方で、「そうか」と、三善晃先生のところで預かって頂けるように計らって下さった。ところが今度は先方様から「もう、これ以上の人数は引き受けられません。」・・で、本当に偶然の結果、矢代クラスへ。こういうのを“配給”の生徒と言うのです。当時、矢代秋雄がいかなる方なのか、まったく知りませんでした。
― 時代としてはいつのことでしょう?
1964年のことでした。当時、池内門下に三善晃、矢代秋雄、諸井誠、黛敏郎、という俊英が揃い踏みで講師をしていた。まさに池内友次郎全盛時代でしたね。池内先生は、長年ドイツ一辺倒であった芸大作曲科に、フランスの風を持ち込まれた方です。
先生というものは、自分の門下から如何に秀れた音楽家を育てるか、ということで評価が定まる、大学内での影響力もおのずからそれに左右されますよね。当時、池内先生が50代の終わり。年齢的にも重きを成してきたときに、“四天王”と称するべき俊英達が芸大で教えており、又、その各々が育てた若者が芸大に入ってきて池内クラスに集まってくる訳。いわゆる相撲部屋と同じ。なんとか一門の何とか部屋みたいね。(笑い)
― 相撲部屋とはなるほど、わかりやすいですね。当時作曲科の学生は何人いらした?
定員は1学年20名ですが同期は23名。当時授業料が年額12,000円、私の家のある練馬から上野までの定期代が6ヶ月3,000円でした。1ヶ月1,500円あれば、日本最高の先生に習えた夢のような時代でした。
しかも、夏休みには1-2度、逗子のお宅にレッスンをして頂きに上がるのですが、一度も一銭のお礼も差し上げたことはありません。池内先生の「学生から金を取ってはいけません。」という威令が、完全に行われていたのです。
― そのような状況で矢代先生のクラスに入られた。
当時、先生は34歳でバリバリ。(笑い) そうそう、確か池内先生から我々3人(女子2人+男子1人)に2度目のお呼び出しがかかった時。周りに先輩も何人かおられましたが、その中で先生曰く、「断っときますが、矢代は女が嫌いですよ。勿論、あいつも男ですから一般の意味ではそんなことはないだろうが、生徒としての女はね。」と。もともと池内先生は「女が作曲やってどうする」と公言してはばからない方で、「女の人はとにかく、とっととお嫁に行きなさい」だった。当時は今ほど女性作曲家もいない時代でした。曰く、「ここは、いい花嫁学校です。作曲科出は、ハーモニーの先生も出来るし、ソルフェージュも教えられる。将来、旦那さんに何かあって、本当にお金の心配をしなくてはならなくなったような時にも、すぐに仕事が出来る。こんな結構なことはありません。ですから、怠ることなく勉強しなさい。“作曲家になろう”だなんて夢に浮かされていないで、篤実な、よい教師におなりなさい。」先生の言葉の持つ深い意味は、おとなになってからしみじみと何度も思い返すことになるのですが、18歳の私はかなりな“ウーマンズリブ”でしたからねぇ、ムカーッとくる訳ですよ。その上、「女はすぐにクビになります。あのクラスで4年勤まったら褒めてあげます。」ですからねぇ。
「僕は話してもわからない人のために時間を無駄にするのはいやだから、もう僕の前に二度と顔をださないで、という形でクビになる。それは女であることが多い。」と。差別しているわけじゃないけど、男と比べると一般論として女性の方がやや弱含みである、それを歯に衣きせずに取り扱ってしまうので、よくいえば公平だったのですか、その結果女の方が「僕イヤ!」と言われてしまう確率が高い、ということだったのでしょう。池内先生はもちろんからかい半分ですよ。本当にそう思っていらした訳ではないですよ。(笑い)
それと、そうだ、もうひとつあった。「あいつはバカなやつは嫌いですよ。」と。えぇ?両方だったらどうなるのでしょうか、という感じで。(笑い) とにかく前置きがすごかったから、先生の初めてのレッスンの時は覚えています。ちょっと先生が遅れていらして、廊下から先生が先輩としゃべりながら歩いてくるのが聴こえてくるのですよ。とにかくその先輩が輝いて見えて、先生と普通にしゃべっているのですもの。もちろん敬語を使っているのだけれど。私達なんて、ご下問があってから「直答を許す!」、みたいなそういう感じでした。(笑い)
― そうして始まった学生生活は如何でしたか?
先生の奥様には頭があがらないのです。後々、大人になってからの笑い話ですが「あなたほど家の冷蔵庫を掃除したお弟子さんはいないわ。」と言われました。当時、夏休みなんかに逗子にある先生のお宅にレッスンに行って、日暮れてきて奥様がコンコンとドア叩いて「あなたお食事。」とおっしゃる。あ、いけね、帰らなきゃと思っていると、「君も食べるでしょ?」と。その後も、もうお話が乗ってくると止まらなくなって、君ね、これね、とレッスンの時からのお話が進化して、話が輪になって千夜一夜物語。絶対ここに根を生やしていたいわ、とお話が面白くて豊かで、あっと気がついたらもう逗子から帰るのに終電になってしまってる。それで、母に電話を、ともぞもぞ言うと、先生が「僕が出ます。」とおっしゃって、「妙な所にいるのではありません。僕が確かにお預かりします。」とおっしゃって。そういうところはすごく紳士でいらした。
正月にお邪魔した時なんぞ、着物を着ていたのですが又々帰れなくなって。奥様の「大丈夫よ、着せてあげるわ」というお言葉に甘えて、惧れ多くもレッスン室のソファーで眠り、翌朝、奥様に着付けしていただいて台所で食器の洗い係り。「帰らなきゃ」と云う気はあるのですが、とにかく次から次へとお客様がいらっしゃるのですよ。そういえばあの子が来るから聴いてお帰り、と言われれば、折角だから居たいじゃないですか。結局残ってまた食事の時間になって、という繰り返し、朝昼晩と三食おりました。(笑い) 先生ご夫妻にはご迷惑かけっ放しの生徒でした。
― 充実した学生生活です。(笑い) レッスンはどういう感じでしたか?
とにかく何が怖いって、「ねえ君、知ってる?」ってこっち向かれるのが怖かった。先生には和声法と作曲を見て頂いたのですが、レッスンは1対1ではなく、和声法は女の子が5人一緒、作曲ではみなしごハッチ組3人でした。前のクラスの時間がずれて、彼らが受けているときに我々の時間がきて、お裾分けで見せていただく、ということはありましたが、常に3人が行動をともにしていた訳です。全く1人でのレッスンというのはあまりなかった。だから3人が居るところで、その中でおまえだけクビ、といわれるのは辛いものがあり、公開処刑であるからにして、それだけは避けたい、ということはありましたね。
― レッスン以外で何か思い出は?
先生はとてもピアノが上手でした。「ねぇ、こんなのどう?」って、新案出の指使いを披露なさる時の、子供みたいに嬉しそうなご様子!その内容も、ピアニストでは案外思いつかないようなアイディアなのです。芯からピアノがお好きな方でした。
― お写真を拝見すると、先生は背が高くておしゃれですね。
スラリと背が高くて、デリケートで素敵な方でした。とってもおしゃれで、夏でも長袖のワイシャツ、本当に端正な方で、ダンディだし、学校では背広をお取りにならなかった。自分のスタンダードがいっぱいある方でした。いつもピシッとしていらした。でも、暑いでしょ?日本の夏ですもの。汗、一杯かくのよ。そうするとポケツトから、実に見事に美しい真っ白なハンカチがでてくるのだけど。そうそうハンカチで思い出しました。
ある生徒とのレッスンで、「ちょっと君・・」と言ったなり、言葉に詰まって。いきなりハンカチを取り出すや、本当に女の子みたいに揉み始められた。「ねえ、僕ねえ、どうしてあげたらいいのかわからないんだけど・・君、どうしてわからないの?」。それを聞いたらガーン!ですよ。たまたま今日は隣の人だけど、明日は私ですよ。お腹が冷-たくなって、小さくなっていました。周りに人がいますから、その中で「君、知らないの?」と言われる、あの日本語があんなに恐怖だったことはなかった。(笑い) いきなり、頭のてっぺんからなめるように下までいって、また元に戻ってのぞきこむように「君、知らないの?」。本当に子供のような気持ちなんですよ。このような生物がこの世に生息しているのが理解できない、これはなんなの?どういうわけ?という感じ。本当に面白い先生でした。
― 純粋な方だったのですね。でもお話を伺うと、本当に怒るときは怖そうですね。
あんまりひどいと、床を蹴るの。古い校舎だから靴音がよく響いて怖かった。あるとき、先生に何か聞かれて「存じません。」っていったら、ひどく叱られた。「いいですか、作曲科の学生は“知りません”ってことを言ってはなりません。その場は何とかごまかすんです!そしてその足で図書館へ行くの。芸大の図書館は日本一、何でもあるからとにかく借り出して一晩で覚えなさい!」と言われました。後年、矢代先生を知るある方の文章を読んでいたら、こういう逸話が出て来た。先生がどうしてもお読みになりたい本があって、その文章を書かれた方がお持ちだったのを知って訪ねて来られた。貸すことはできないが、といったら結局そのお宅で、一晩かかってフランス語の原書を読破された、と。こういう人だったんだなあと思います。ご自分ができるから、弟子にも要求する。まして学生だもの、当然にしごく。能力がないのなら、この世界へ入ってもだめだぞ、ということだったかも知れません。
― 厳しいけど味のある面白い先生ですね。
矢代先生は何がえらかったかというと、人間的に実に公明正大な方でした。そういう意味で「私」というものを抑えて、生徒に対してもギリギリまで我慢する。大変なんだなあと思っていました。
― 生徒の個性があって伸びるものがあれば、好き嫌いではなくて公平に見ておられた。
個人の資質では豊かでも、人間って相性というのがあるじゃないですか。その部分で先生が非常に我慢しているというのが子供心にわかった。先生は才能のある方が好きで、すごく優秀で立派な、例えば尾高惇忠さんとか池辺晋一郎さんとは本当に仲良かったの。後輩からみても憧れの世界で、力があって対等に話ができて、そして両方がお互いに好きなのね。こういうお弟子さんって本当にいいなあ、と思った。そういう人もあれば、普通の人だけど預けられた子というのは守り育てなければならない、という気持ちはすごくおありでしたね。それを越しても爆発しちゃうのはよっぽど気に入らなかったのね。好き嫌いではなくてね。我慢というのは大変なんだなと思った。
卒業して、個人的に「君来るかい?」って言われて、先生のお仕事の助手みたいなことをしていた時期があったのですよ。「いやあ、あれだけすがりつかれりゃ情がわきますよ。」と言われました。私にとっては_陀多(カンダタ)の蜘蛛の糸ですよ。これを離したらもう“あとがない”ということ。当時の芸大には、とにかく桁の違う人がたくさんいた。本当に世の中、才能のある人っているんですよねぇ。その中で私のような凡人が、学校という組織の中で決められた課程をクリアしないと卒業出来ない、しなくては前にいかれない。それは平凡な人間にとってはかなり大変なことなんです。その中でがんばっている凡人に、だめだからって切っちゃって命を絶ってしまうことはできない、という意味での情け深い人でした。伸ばしてやろう、ということはものすごく感じた。教師としては資質のある方でした。要するに生徒を引っ張る糸がいっぱいあるのね。
― 素晴らしい先生ですね。
ご自身では教育者とは夢にも思っていなかったし、むしろ教育者と言われるのは嫌いだったと思う。自分は自分でいたい人だった。芸術家です。でも、結果的には教育者としての資質の高い立派な先生でした。とにかく優しい人でしたね。この言葉の意味は難しいですよね。私よく思うんです。「簡単に優しいと言うじゃないよ」と。本当に人間が人間に優しいってどういうことかわかる?死ぬほどおっかねえんだ、息が詰まりそうなんだ、だけど伸ばしてやろう、こいつに何かを足してやろう、というのが優しいのであって、甘やかしとはまるで違うんです。そういう意味では素晴らしい教師だった。
今、自分も教師をやってみてよく思うのですよ。人間が嫌いだったらこの仕事はできない。どんなに力があっても、人を蔑すむことで自分の教師たる道を持続するようなメンタリティの人は困ります。が、先生にはそれがなかった。本当に人間同士の付き合いをしてくださった。こういう方は多くはないですよ。これだけ能力差があると人間ってコミュニケーションがとれないと思うのだけれど、すがりつかれりゃすがりつかれていると認識してくれる能力があった。そういう意味で素晴らしい人。
― 教師としての在り方を教わり、今に活きておられる。
本当にそう思います。音楽の魅力・魔力に捉えられて、何とかいいものを書きたい、音楽の正体をつかみたい、と苦闘している。そこへ_陀多(カンダタ)の糸で籠が降りてきて、お乗りといわれて。そのままスーッと塔に登っていく、なんだかわかったような、背が高くなったような気がする、景色をみせてもらうから。ところが、師匠を離れると当然、これは緩やかに落下する。えー、見えてた景色のはずなのに、又、解んなくなるんです。ところが後々、この塔を自力で登ろうとすると、いっぺん通った道は登りやすい。そういう意味では師匠というのは背が高くなきゃいけない。先生自身のメモリが低いと、そのレベルまでしか到達しない。人は憧れによって伸びるものだから、そこまで連れて行ってください、と憧れ得る師匠に出会いたいものですよ。しかし、その師匠の籠に乗るには作法がある。どういうことかというと、ただ己を滅して先生に惚れなさい。示されるとおりに歩いてついておいで、と。惚れるというのは「能力」なんです。
音楽を取り扱っていくひとつの行儀というかスタイルを教えていただいた。実際にいろいろな技術を教えてもらったことも大きいけれど、音楽と向かい合うスタイル、姿、枠組みを教えてもらいました。
どうやったら勉強できるのか、音楽をどういう風に自分の人生に位置づけるのか、ということ。思想教育ですよ。一番大切なことだったと今感じる。およばずながらそういう教師でありたいな、資質がちがうからどうやっても無理だけど(笑い) 憧れは持っています。
池内先生からは、具体的なことはあまり習いませんでした。でも、思想というか、「音楽する」ということはどういうことか、というのは強烈に仕込まれた。そういうのは人間としての教養、器の大きさであり、そういうのが伝達できるというのは、ジャンルは関係なく人間としてのすごさだと思います。
何の脈絡もなく突然思い出すのですよ。当時は解からなかったが、「先生、こういうことだったのですかぁ。」ということが。お二人は私の中に活きていますね。
― それにしても矢代先生はこれから、という時に突然亡くなられてしまいました。先生がご存命であれば、というお話をよく伺います。
亡くなられたことはショック中のショック。若すぎました。先生の、作曲家としての世界に加えて、教師としての素晴らしい能力を発揮する時間が奪われてしまったことが誠に口惜しい。作品は残しているけどね。もっと長生きしていただければ、池内先生がお弟子さんを何人も残したように、もっと沢山の先生の財産を受け継ぐ人を残していただけた。もったいないことです。パリ音楽院には、作曲に至る教育に分厚い伝統があって、先生はこれを非常に熱心に学ばれた。「エクリチュール」(書式)というのですが、これは彼にとって、作曲家矢代秋雄と同じくらい大切なものだった。矢代先生の死を一番悲しんだのは、ご親族を別にして、池内先生でしょうね。自分が頼むね、と言った相手が先に逝ってしまったのですから。
― 「交響曲」を練習していますと、実に重量のあるがっちりとして、磨きのかかった無駄のない作品と感じます。
先生の作品、かっちりしていて誠に正攻法。磨いて磨いて。「作曲ってのはネ、鯛の眼肉でかまぼこ作るみたいなことですよ。」今でもお声が聞こえます。だからたくさん書けなかったのですね。不分明なものがない。そういうことにかける執念は凄まじかった。それとスコアがきれい。ありとあらゆる意味で職人でした。とにかく異常とも思える勉強家。池内先生はおっしゃっておりました。「三善は天才です。矢代は俊才です。」と。三善先生との間柄には感動します。本当の意味で理解しあっていらした。
― 来年の1月、新響で三善先生の「交響三章」を演奏させていただくのが楽しみです。矢代先生の「交響曲」初演の時、プログラムに三善先生が寄稿されておりますね。三善先生の「交響三章」に関しても矢代先生が寄稿されております。本当に仲が良かったのですね。ところで「交響曲」に関して、何か思い出がありますか?
1971年の「交響曲」再演の日。文化会館のロビーで、ひょろひょろと背の高い先生を見上げながらお話したシーンをまざまざと思い出します。「初演はね、勿論嬉しいし緊張する。でも再演て言うのは作曲家にとって、もっともっと嬉しいものなんだよ。特にオケの場合。作品は、演奏されてこそ意味があるものなのだからね。」と。あの時、先生42歳2ヶ月。40歳5ヶ月でパパになられて「身の置き所もない位に愛しいもの」がこの世に現れた衝撃を、ようやくゆとりを持って受け入れることがお出来になった頃でした。この時より少し前のことになりますが、私が婚約の報告に上ったとき、「交響曲が出来たときってさ、僕、心がすごくストーンと空っぽになってた時期だったんだよね。結婚してもいいかなあ、と思うような状況ってそういうときだよ、君も今そうなんでしょ?」とおっしゃった。何かが満ちた時、ということだったのですね。
― いろいろと楽しい、また貴重なお話をありがとうございました。
矢代先生には、綺羅星のごとき俊英のお弟子さんがいらっしゃるのに、私なぞに思い出話をさせて頂いて、本当に有難うございました。才能にあふれた師と、豊かな資質を持った弟子との交流も美しいけれど、凡庸な者をも振り返って下さり、一生に亘って「メシを喰ってゆける」技を仕込んで下さった、人間として奥行きのある方だったと云う、作曲家・矢代秋雄のもうひとつの顔をお伝え出来たら幸せです。
聞き手、構成:土田恭四郎(Tuba)