第194回演奏会パンフレット(2006年7月)掲載予定


曲目解説
黛 敏郎 涅槃交響曲

松下俊行(フルート)

涅槃交響曲=「音」と「声」との間(はざま)=

 「余韻(よいん)縹渺(ひょうびょう)」という言葉がある。
 ある強さで鳴った音が次第に減衰しつつも、波紋を繰り広げながらいつまでも幽(かす)かに残っているさまを言う。例えば除夜の鐘を思い起こしても良い。この音の減衰と波紋とに我々が感じる何か・・・それは既に単なる物理的な振動ではあり得ない。我々をしてその心理に赴かせる根源への関心と究明にこそ『涅槃交響曲』(*1)の出発点がある。
 この作品は、釈迦の涅槃への道を描くといったスペクタクルや宗教的なメッセージを含んではいない。黛敏郎がヨーロッパの音楽の閉塞感との葛藤の果てに行き着いた、東洋の音の世界との融合の創造物に他ならず、読経や梵鐘に由来する音が入っていると言っても、それはあくまで西洋の音楽の基盤と技法と文脈の中で整理され、また活用されている。所謂(いわゆる)「日本の音そのもの」によって、殊更に東洋趣味を押し出し、更には特定の仏教的テーマを表現しようとの意図から創造されたものではない。それこそがこの作品に接するに当たって我々がまず銘記すべき事であると信じる。以下、この作品の中核を成す「梵鐘」と「読経」の意味するところを中心にその点を考えていきたい。

梵鐘の象徴するもの
 『徒然草』に「凡(およ)そ鐘の音は黄鐘調(おうじきぢょう)なるべし。これ無常の調子、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の無常院の声なり」とある。黄鐘調とは雅楽の調子のひとつ。京の西園寺の鐘は何度鋳(い)かえされてもこの基音にならず、結局遠国より見出されたものが据えられたと文章は続いている(第220段)。何気なく耳にする梵鐘にもこのような厳密な音律が求められている事にも驚くが、ここでは鐘の音を「声」としている部分にこそいま一度注意を払うべきかも知れない。
 無常の声・・・我々日本人は確かに鐘の音に音以上の何かを感じている。が、ある形状をした青銅製の構造物が木片によって打ち出される音を何らかの意味ある「声」と聴き、それが現代の我々にもさしたる疑問も無く受け継がれている状況は、考えてみれば不思議ではある。確かに現在では、音に対する左右の脳の働きに民族によって差異があり、それが日本人固有の感覚につながり、文化の基盤となっている事も、或る種常識になりつつある。だがそれを知ったからと言って、我々が無機的な音を「声」として捉え続ける形に変化はあるまい。これは音に対する固有の伝統である。かつてあったように現在もかくあり、そして未来もかくあり続けるだろう。
 黛敏郎が梵鐘の音に関心を持つに至るそもそもの契機は知らない。ただ「もはや学ぶべき事無し」とパリ国立音楽院での留学を1年で切上げて早々に帰国した事や、その後のミュージック・コンクレートへの傾倒などを考え合わせれば、根底にまず既存のヨーロッパ音楽への失望と新たな音楽世界への模索があった事は想像に難くない。『涅槃交響曲』の書かれた1958年時点での彼の言葉。

 「ヨーロッパの前衛音楽は、合理的、論理的思考を極限まで推し進めることによって必然的に、(合理的非合理)ないし(論理的非論理)ともいえるような次元 に到達しようとしている」

 例えばハーモニーの事だ。ヨーロッパの音楽は平均律を採用し、音楽を構成する音を12個に単純化(合理化)する事で、転調の自由を獲得し飛躍的発展の契機を掴んだ。が、その自由を極限まで追求した結果、調性・・・ひいてはハーモニーの崩壊に至り、20世紀の音楽は混迷の闇から抜け出せずにいる。この混迷の中で様々な試みがなされているが、その抜本的な解決の為には音響に対する認識を根本から改革する必要がある。西洋の音楽はそこで頓挫しつつある一方で、そうした異種の音響に対する直感的・感覚的な受け取り方を日本人は謂(い)わば本能的に把握し得る・・・こうした認識がこの気鋭の作曲家の裡(うち)には強くあった。そして彼自身がその日本人の「耳」を自覚するに至って初めて、梵鐘は彼にとって西洋音楽の閉塞感を打破する有力な手段となり得たと考えるべきなのだろう。
 帰国後の1953年以降、「NHK電子音楽スタジオ」に籠(こも)り、電子音楽にひとつの活路を見出す過程で、整然とした倍音構成によってもたらされる西洋の楽音の彼岸にある、複雑極まりない梵鐘の音の「科学的な」分析に向かう。それは日本人の音に対する直感・感覚に対する分析でもある。西洋の音楽基盤による「音響」としての理解把握が、日本人としてこの時の彼にとっては不可欠だったのである。

 作曲家としての彼が、あくまでも西洋音楽の基盤に立ってこの分析の成果を活かそうとした事を忘れるべきではない。日本政府の依頼によりR.シュトラウスが「紀元2600年」式典(1940年)に寄せた作品で、実際の梵鐘の音を使った事を僕は想起しない訳にはいかない。最後のロマン派作曲家を自負するシュトラウスの耳にとって東洋の鐘の音は、あるがままに取り入れるほか始末のしようのない、「非楽音」でしかなかったのである。黛敏郎はこれを分析の対象とし、複雑な音構成の梵鐘の音を、西洋音楽の構成要素である12音に集約した。それは結局梵鐘の音を特徴づける複雑な成分を排除し、単純化する作業でもあるが、これによって「梵鐘」は多分に抽象化し観念化し、そして普遍化の過程を辿る。こうした発想と手法によってのみ、それは彼の手の内になり得たのである。
 この一連の科学的な分析や作品化への試行錯誤が、NHKの音響技術陣やN響という最高の布陣と共に繰返され、『カンパノロジー(*2)』というひとつの作品に結晶している(1957年)。作曲者は28歳。若い才能に対する当時の社会の度量には、ただただ感じ入るほかない。
  
読経について
 『カンパノロジー』の創作と並行して、作曲者の関心はむしろ鐘の音を「声」と捉えている日本人の世界観ともいうべきものに向かっていった。梵鐘の音を分析しただけでは事は解決しない。それは表層の「音響」の次元の話ではなく、受け手がそれを捉えた際の意味づけに働く、意識の深層を形成するなにものかに行き着いてしまう次元の問題であるのだから。この複雑な音響に惹かれていった自己。それを意味ある「声」と捉えている自己。そのような存在の意識の深層にある、仏教的世界観とも言うべきものを音によって総括しなければ、結局は梵鐘への関心の源泉にも行き着かず、作品としての不徹底の感も否めない。これは真摯な追求の末に、当然行き着くべき帰結であった。
  こうした一連の思想的発展の下に『涅槃交響曲』は着想された。再言するが、ここに表されているのはより根源的な「世界観」であって、それ以上の具体的な踏み込みはない。音楽・・・それも我々の世界と対峙(たいじ)する西洋音楽の基盤に立った音響・・・によって表現された、潜在的な我々の意識の世界があるのみである。例えば作曲者はこの作品中で実際の経文を扱ってはいる。が、それは意味にこだわらない純粋な音響のひとつとしての扱いである。ここで必要なのはあくまで「仏教的」音響であって、仏教そのもののメッセージではないのだ。作品のスコアには歌詞について「呪文以外の特別な意味の無い」テキストとの記述がある(*3)。それは何か?

 『涅槃交響曲』中で具体的な「歌詞」として唱えられるテキストは「楞厳咒(りょうごんしゅう)」といい、禅宗では最も重要とされる経呪のひとつで『大佛頂万行首楞厳陀羅尼(だいぶっちょうまんぎょうしゅりょうごんだらに)』の略称。陀羅尼とは釈迦の言葉そのままを写したものと信じられており、多くの経文が漢訳された際にも敢えて原語(サンスクリット語)の音をそのまま伝えるのにとどめられている。音訳なので用いられている個々の漢字を辿っても全く意味をなさない。またその漢字音そのものも日本に入った時点、更にその後の年月を経て当然ながら変化している(我々に馴染みのある「菩薩(ぼさつ)」は「ほぞ」、「般若(はんにゃ)」は「ほじゃ」と読まれる)。このように発音さえ原型からはかけ離れたものとなっているが、あくまでもあるがままに受容れられ、本来の意味が顧みられる事は殆どない。むしろ禅宗に於いては意味を思案する事から離れ、これを坐したまま或いは堂を巡りつつ一心に念誦する事で精神の集中を図り、悟りに至る禅の一助として位置づけられている。すなわち禅が一種の神秘体験をもたらす為の静寂の所作であるのに対し、同様の目的を持った音響を伴う所作という事も出来よう。そうなればこそ作品中で具体的なメッセージ性を持たぬ「音」として扱う事が可能となる。意味の辿りようはなく、また辿る必要もないこの読経を「音響」として聴きとらせようとする作曲者の意図は、例えばユニゾンであるべき部分を半音故意にずらして重ね、読経の荘厳な音(梵鐘の響きに通じる)のあり方を再現しているところにも顕(あらわ)れている。当然ながら、ここでも「分析」の結果は活かされている。すなわち12音に集約された読経の姿だという点で。

第1楽章:カンパノロジー I
 この楽章は前述の『カンパノロジー』をそのまま使用している。梵鐘の音響を分析した結果としてこの作品の「細胞」ともなるべき音群は(譜例-1)の通りである。構成音は全て12音に集約・純化されているので、実際の梵鐘の複雑な音響に近づけるため音の出のタイミングをずらしたり、楽器群の配置(*4)を工夫することで梵鐘と同様の「唸(うな)り」を表出する(譜例-2)。これを「Campanology-effect」と作曲者は呼んでいる。この梵鐘を基底としつつ、これと相まってオーケストラに細かい音の動きがあるが、こうした部分はウェーベルンを始めとした20世紀の西欧音楽の潮流が確実に意識されており、東洋の音世界との融合に対する作曲者の意図が見える。

第2楽章:首楞厳神咒(しうれんねんじんしう*5)
経頭(きょうがしら)(ソロ)の「南無楞厳会上(なうれんねんういじょう)」に対し大衆(だいしゅう)(合唱)による「諸菩薩(じほぞ)」の応答が行なわれ、以下3回「楞厳会上諸菩薩」の経題(これから唱えられる経名)が繰返される。計四唱されるこの前置きを「啓請」といい、続いて合唱による楞厳咒(りょうごんしゅう)第一会(え)が唱えられる。楞厳咒は第五会まで全文427句(この部分を「平挙」という)から成るが、その約3分の1の137句を占める第一会の全てがこの楽章は収められている。前半では「南無婆伽婆帝(なむぼぎゃぼちい)(元々は『仏を礼賛せよ/至尊に至る』などの意)」のソロとユニゾンによる合唱の応酬が印象的で、数回繰返されたのち「般羅帝揚岐羅**(ほらちいよきら)(同『呪いを破る』の意)」の部分で強奏(これは「喝(かつ)」に当たり、この後も何度か出てくる)され、ゲネラルパウゼとなる。その後は読経のハーモニーも多層化し、オーケストラとの連携も緻密になって緊迫感を増してゆき「三昧(ざんまい)」の境地に至る。長い下降グリッサンドが諷経(ふぎん)とこの楽章の終わりを告げる。

第3楽章:カンパノロジー II
  再びオーケストラだけの梵鐘が巡って来る。冒頭にシンバルの特徴的なソロが入り、仏教的空間の拡がりを実感させるが、その後チェレスタに始まる静謐(せいひつ)な部分は瞑想的とも言える神秘感を運ぶ。後半は第1楽章にも現れた経過句を経て、次第に音響が重層、増幅され強奏の果てに次楽章の冒頭であるソロ「摩訶般若婆羅蜜(もこほじゃほろみ)」が唱えられる。

第4楽章:摩訶梵(まかぼん)
 楞厳咒は第五会まで唱え終わると、最後に「摩訶般若婆羅蜜」が四唱されて終了する。この部分を「摩訶梵」という。この楽章ではこの7文字の「歌詞」のみが6人によって次々と繰返され錯綜されてゆくが、これは詰まる所、第2楽章冒頭の「啓請」に対応する部分で、楞厳咒全体の諷経の終了を意味している。長いポルタメントを伴う特徴的な詠唱が続きながら楽章が展開してゆく。

第5楽章:カンパノロジー III
 唯一の速い楽章。全曲を通じてffで冒頭より3群全てのオーケストラが鳴り響く。作曲者のいう「全山の梵鐘が一斉に鳴り響く」印象の音群に加え、ピアノが更に切迫した鐘の響きを加える。一瞬の沈黙を置いて合唱の唱和が「梵鐘」として加わり、Campanology-effectは最高潮となるが、再度の沈黙の後、今度は絃楽器群に緊張度の高い旋律が初めて現れ、更に激しさを増す。やがて音量の退潮の果てに、雅楽を思わせる響きが残り、安息の最終楽章への序奏としての働きを為す。

●第6楽章:終曲=一心敬礼(いっしんきょうらい)
 一転してここでは天台宗の声明(しょうみょう)が扱われる。日本の声明はここから派生したと言われるが、簡素を旨とした禅宗のそれとの違い、ある種官能的とさえ言える世界を展開する。「一心敬礼」は天台宗の法会(ほうえ)に際して唱えられる声明で、「一心敬礼(いっしんきょうらい)本師釈迦牟尼仏(ほんししゃかむにぶつ)」から始まり、世界のあらゆる仏に対する祈りとして唱えられる。固有の旋法に基づき、全楽章中でほぼ唯一の旋律らしい旋律が繰返される(ここにも歌詞は無い)。他の楽章とは興趣を異にし、それまでの禅的な厳格さや激しさに対して、日本人が他方で仏教に抱く浄土的な救いをも暗示する世界が繰り広げられる。「梵鐘」の音の構成も変化し、やがて荘厳な響きの最高潮を経て音は急速に減衰し、永遠なる悟りの象徴とも思えるベルの音が消え行く中で作品は終わる。「涅槃(Nirvana)」の原義である「吹き消えるもの」を改めて感じさせる。

 なお作品は、音楽に於ける汎(はん)東洋主義を標榜し、黛敏郎に多大な影響を与えた早坂文雄に捧げられている(*6)。同年第7回尾高賞を受賞。
本稿を書いている途上で、岩城宏之氏の訃音が届いた。『涅槃交響曲』をこの初演指揮者で演奏しようとの新響の決断は遅きに失した。10年前であれば作曲者も存命であっただけに残念でならない。個人として接した謦咳の数々を思い起こしつつ、氏の冥福を衷心より祈る。

*1:初演時の黛敏郎自身の表記は「『涅槃』交響曲」。本稿では現在一般に流布している『涅槃交響曲』で統一した。
*2「カンパノロジー」とは作曲者によれば、鐘を製造する際の合金の割合や鋳造の方法を研究する学問の名称。
*3:原文は以下の通りである。
  The text sung by male chorus in the 2nd and 4th Movements are Japanese accented  Sanscrit Sutras of Buddism which have no specific meaning other than magical incantation. 
*4:オーケストラ配置の指示は、以下のようになっている。


*5:「しゅうれんねんじんしゅう/しゅれんねんじんしゅ」など発音・表記は一定でない。ここでは初演時の作曲者解説中のものに従った。
*6:武満徹によれば、この作品の初演3年前に死去した最晩年の早坂文雄には、「涅槃」と題した交響曲を書く構想があったと言う。

**HP管理者注:「般羅帝揚岐羅」の「羅」は口偏に羅ですが、ブラウザでは表示されないため便宜的に羅で表示しました。
 またルビはかっこ(小さい文字)、ローマ数字は I(iの大文字)を使用しています。
        

<主な参考資料> 
・ 「現代音楽に関する3人の意見」:團伊玖磨/芥川也寸志/黛敏郎(中央公論社)
・ 「名曲解説全集3」より『涅槃交響曲』の項:秋山邦晴(音楽之友社)
・ 「音楽芸術」1958年各号(音楽之友社)
・ 「禅宗の陀羅尼」:木村俊彦+竹中智泰(大東出版社)
・ 「簡約 臨済宗読誦聖典 補巻」:西村惠信 監修(四季社)
・ 「ブッダ最後の旅」:中村元(岩波文庫)
・ 「涅槃への道」:渡辺照宏(ちくま学芸文庫)
・ 「禅〜脚下照顧」:(PHILIPS UCCP-3126/7)  
・ 「涅槃交響曲」:(東芝EMI CZ30-9013)  他


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