第87回演奏会(80年4月)プログラムより


伊福部昭とメフィスト『音楽芸術』誌 昭和32年5月号掲載

三浦淳史(音楽評論家)

伊福部昭との友情はもうじき三十年になるという永い友達づき合いだから、年代記的に書いていったら、優に一巻の書物になるだろう。僕たちは札幌二中でめぐりあったわけだが、今中学時代の友人といえば彼ひとりで、すべては忘却の彼方へと消えてしまった。小説家の船山馨、彫刻家の佐藤忠良という連中も同期だそうで、伊福部とは現在も面識があるらしいが、僕は全く記憶にないところをみれば、全然つき合いもなかったらしい。学校の名称も変わって今は西高校というそうだ。札幌一中というのは雪合戦会で有名なくらいだから、質実剛健の校風で知られ、われら軟弱な二中生からいわせると殺伐粗野な点取虫であった。二中の方は当時のおよそ非文化的な学校教育から見ると、音楽部の活躍もかなり盛んであったし、音楽好きな先生に恵まれていた。北大のオーケストラでタクトをとっていた植物の先生とか、やはり北大出身で担当の化学よりも音楽が好きだった「ジャックさん」がいた。ジャックさんは今十勝の中学校校長をしていて、去年上京の節、伊福部の家に訪ねて来られたそうだ。ジャックさんのきもいりで校内音楽会も開かれ、伊福部のヴァイオリン独奏はいつも音楽会の白眉であった。もうホーマンをあげて、バッハなども手がけるほどだった。伊福部の演奏だけは野次が飛ばなかった。長身で美少年の伊福部は金ボタンながら「ヴァイオリニスト」の風貌をそなえていたせいかさすがの腕白連もシーンと耳を傾けたのである。何しろ音楽なるものは男子中学生の為すべき業でなかったし、カリキュラムから除外されていた時代のことだから、一度僕が「アイ・アイ・アイ」を独唱した際なぞ、白いハンカチで汗をぬぐったところワッと野次がわいて散々な目にあった。そこへゆくと伊福部は白面の貴公子といった風格があって、僕なぞ伴奏者が五、六ぺんやって、やっとはいれたほど上がったものだが、彼は冷たいくらいあがらなかった。夏休みになると、伊福部はおやじさんが村長をしている十勝国音更村に帰省してしまうので、僕は三日毎に「ラヴ・レター」を書いた。伊福部は美少年だったし、僕の彼に対する友情にはホモ=セクシュアル・ラヴに近いものがあったかも知れない。もちろんジイドのようなものではなく、極めてプラトニックであった。三島由紀夫はホモ=セクシュアリティの弁護をしているが、僕も去年ベンジャミン・ブリトゥンとピーター・ピアーズの男性コンビが来日した際、二人の友情を眺めて、中々いいものだと共感したことがある。僕がぶしつけに何故結婚はしないのかと愚問を発したら、ビアーズは『フェイト!フェイト!フェイト!(運命だ)』とたてつづけに三連発して逃げてしまったっけ。これは脱線したが、伊福部からもキチンキチンと返事がきた。罫のない純白なレターペーパーに角封筒を使っていた。整理好きな伊福部は当時の僕の手紙全部今なお所蔵しているそうである。僕もトランクの中に入れて持っていたが、仙台・東京・張家口と各地を転々しているうちに一枚もなくなってしまった。ここで「若き日の手紙」を御披露できないのは誠に残念だ。
富樫康君の文献---「日本の作曲家」(音楽之友社刊)---によると『当時16歳のメフィストは、15歳の伊福部に、作曲以外は音楽上無意味だと力説したため、その言を正直に受けた彼は、独りでひそかに作曲の勉強を始めた。』とあり、カッコして(伊福部は三浦のことをメフィストフェレスと綽名している)という注釈をつけている。僕は伊福部から面と向かってそう言われた覚えはないが、彼の才能にほれこみ、作曲という業を彼にせおわせたメフィスト的役割を果たしたことになるかも知れない。僕は優れたアジテイターだった(今はもうその能力もないようなので過去形にしておく)。彼にもその能力は相当なもののようで、彼が上野に出講していた頃は作曲科の若い学生をインスパイアするところが大きかったらしい。当時学長をしていた小宮豊隆先生が、伊福部君のようなひとこそ、芸術の学校には必要であると言っておられた。僕は先生の不肖の弟子の末席を汚しているつもりだが、さすがに先生の勘は鋭いと思ったことがある。最も教師らしくない教師だが伊福部は便々と教壇に立っているいわゆる功労者が勤続三十年かかってもできないことを数年でやっちゃったではないか。以来教壇に立たないのは楽界の一大損失だと思う。
伊福部はいわゆる楽壇づき合いをしないので、誤解曲解されることも少なくないらしい。どだい人間関係というものは誤解の集積だから致し方ないと思うが、伊福部でも僕でも日本人好みの福徳円満型に言いようのない反撥をもっている。もっともらしく答えておけばよいものを、鴎外流にいえば一寸ミスティフィカシオンをやる悪癖がある。これは僕らが受けたあの偽善的な修身的形式教育のワクの中で音楽をやってきた反逆的精神のお陰で、それが脈をひいているんだと思う。だから芸術の分野でも如何にももっともらしい芸術や芸術家と称するひとたちに反撥を感じるのだ。いつまでたっても青くさいことだと思うが、いつになったら円満になれることやら望みがなさそうだ。
しかし、近年の伊福部は青くさいところや神経質なところが覆われてしまうくらい日本人離れしたタイプになってきた。この写真をとったときなど、アイ夫人の自家仕立になる、婦人用のイギリス製モヘア地の上衣にバスケットのような厚手のズボンという部屋着をゆったりと着こなしているときは一寸日本人離れがしている。チェレプニン夫妻はよく伊福部のことをロシア人に似ていると言ったものだ。仕事の上ではやはり凝り性で神経が細かくゆきとどきながら、人間としては北海道の原野を思わせる茫漠としたところが出てきたのは嬉しいことである。


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