2001年12月維持会ニュースより
メンデルスゾーン・ノート
中條 堅一郎(クラリネット)
メンデルスゾーン(1809〜1847)は、ドイツの作曲家です。この頃の西欧世界を見てみますと、1789年のフランス市民革命の結果、貴族による政治が終わり、次に誰が政治の中心になるかということで保守と革新の対立が激しくなり、さらにナポレオンの登場で全ヨーロッパに大きな社会の変化がもたらされる機会が生まれました。またこの時期、イギリスでは産業革命が進み、農業中心から商工業中心の経済へと移っていくところでした。思想・文化面でも、自由で個性を重んじるような"ロマン主義"の考え方がそれまでの反動として主流になってきました。このような時代背景を捉えると、メンデルスゾーンがどのような環境で音楽活動をしていたのかが分かりやすくなると思います。では、いくつかのキーワードを挙げて、メンデルスゾーンを見ていくことにしましょう。
【名前の秘密】
メンデルスゾーンの本名は、Jakob Ludwig Felix Mendelssohn-Bartholdy と言います。長いですね。Felix
までが名ですが、Felixとはラテン語で「幸福」という意味で、その名の通り、メンデルスゾーンはある「宿命」を除けば、明るく栄光に輝く恵まれた一生だったと言えるでしょう。祖父モーゼスは「ドイツのソクラテス」と言われた哲学者で、「Mendelssohn(メンデルの息子)」という姓は彼自身が名付けたものです(それまではMeldelと名乗っていました)。父アブラハムは銀行家、母レーアも銀行家の出身で、メンデルスゾーン一族はヨーロッパでも有名な家族の一つでした。メンデルスゾーンほど裕福な出身の音楽家はいません。
ところが、彼らはユダヤ人だったのです。ご存じの通り、ユダヤ人の歴史は迫害の歴史でもあります。メンデルスゾーン一族にも多々の受難がありました。時代の中心的階層(=ブルジョワ)であった彼らが生き延びるためにとった選択、それが「改宗」です。つまり、ユダヤ教徒であることをやめ、ルター派のプロテスタントになることによって迫害を逃れようとしたのです。その際に2番目の姓として付けたのが「-Bartholdy」の部分なのです。父アブラハムは、息子に向かってこう言っています。「メンデルスゾーンという名のキリスト教徒は存在しないのだ。メンデルスゾーンと名乗ることは自動的にユダヤ教徒であると言っているのと同じだから、これからは十分気を付け、"Mendelssohn-Bartholdy"と名乗ること!」
このように、長い名前の裏には、ユダヤ人であることへの配慮が隠されています。もっとも、改宗し名前を改めた以後も見えないところで差別が続いていたのは事実です。例えばベルリンで、メンデルスゾーンはユダヤ人というだけの理由で本来就任するはずの職から排除されてしまったことがありました。ただ、メンデルスゾーン本人は自分がユダヤ人であるとかそのようなことは全く気に留めておらず、信仰心の篤いキリスト教徒であり、ドイツの民族主義的な音楽家だったと言われています。
【徹底的な英才教育】
メンデルスゾーンは、1811年にハンブルクからベルリンへ移住しました。この時、まだユダヤ教徒だった彼は(改宗したのは1816年)、差別から公立の学校へ通うことができませんでした。しかし、公立学校に通えなかったことがむしろ幸運だったと言えるかも知れません。教育熱心だった父は、超一流の家庭教師を招いて、4人の子供たちに一日びっしりと組まれたさまざまな勉学をさせました。ドイツ語にドイツ文学、ラテン語にギリシャ語、フランス語に英語、算数と数学、図画、舞踏、体操、水泳、乗馬、そして人間形成のためと考えられていた音楽(このころはまだ音楽家になることを目指していませんでした)・・・。メンデルスゾーンは幼少のころから、モーツァルト同様にヨーロッパ各地へ頻繁に旅行していましたが、これも父が計画したことです。ロマン主義文学の先駆けであるゲーテとの出会いなど、旅は様々な様式、人間性、民族性に触れる絶好の機会となったようです。1827年にはベルリン大学に籍を置き、ヒューマニズム教育(立花隆氏の言うところの教養)を完成し、目もくらむほどの知性を身につけていました。
このような様々な教育が土壌となって、メンデルスゾーンは9歳でピアニスト・デビューするなど、音楽面で早くからすぐれた才能を発揮していきました。「何でもできたが、あえて音楽の道を選んだ」という点で、そのトータルとしての教養の高さが分かります。父アブラハムも最後の最後まで「息子は音楽家になって本当によいのだろうか?」と心配していたとの話です。
【ライプツィヒ】
ライプツィヒといって連想されるのは、おそらく「バッハ」と「ゲヴァントハウス」でしょう。メンデルスゾーンは、師匠ツェルターの影響を受け、当時「無味乾燥な音楽」として埋もれていたバッハの作品、とりわけ「マタイ受難曲」を復活演奏し(1829年)、バッハ再評価のきっかけを作ったことで知られています。また、世界最古のオーケストラのひとつであるゲヴァントハウス管弦楽団の初代指揮者を務めたのもメンデルスゾーンです。1835年の就任後、それまで指揮者不在(不要)だった同オーケストラに質的改革をもたらし(具体的には、楽器編成の大型化、団員の給料アップなど、現代のオーケストラの原形を作ったといっても良いでしょう)、一地方のオーケストラから世界水準のオーケストラへと成長させたのです。1843年には今日にも長い歴史を誇る音楽学校を創立しています。ゲヴァントハウスも音楽学校も共にメンデルスゾーンの高い教養の上に形作られ、彼は亡くなるまで関わり続けました。
メンデルスゾーンにとってライプツィヒという都市は、紆余曲折の後にたどり着いた彼にとっての本拠地といえます。だからこそ、ここまで情熱を傾けたのではないでしょうか。ライプツィヒの人々は、ベルリンと違って非常に寛大であったことも見逃せない点であると思います。ライプツィヒは以後、ドイツ音楽の中心都市となりました。
さて、今回取り上げる交響曲第3番は、メンデルスゾーンがもっとも充実した活動をしていた1842年に完成しました。「スコットランド(正確には、Scottish)」という副題がついていますが、彼が1829年にスコットランドを旅した際に、その霧の立ちこめる美しい自然美、数多く伝わる戦いの伝説からヒントを得、スコットランドから思い出される心象風景をこの曲に描きました。いわゆる曲の解説は省略しますが、小ネタを少々・・・
・ 第3番という番号は、実は出版社の便宜上付けられたものでして、本当は彼の作曲した5つの交響曲の最後を飾る作品です。
・ この曲には、作曲家であり指揮者でもあったメンデルスゾーンの知恵と経験が随所に見られます。例えば、全4楽章を続けて演奏するよう指示されていますが、それは楽章間での拍手を封じるためだと言われています。
新響では長い間、メンデルスゾーンの作品を取り上げる機会がありませんでした。しかし、昨年の第4番「イタリア」、前回の『真夏の夜の夢』と演奏していく中で、彼の作品を演奏することの難しさと楽しさを知りました。今回、スコットランドの薫りが漂うような演奏ができれば幸せだなと思います。維持会の皆様、来年1月13日をどうぞ楽しみにしてください。