2002年6月維持会ニュースより


ブルックナーの交響曲

伊藤 耕平(Vn)

 昨年末から今年にかけてブルックナーファンは二人の巨匠を失った。世界の最年長指揮者として活躍していた朝比奈隆氏が昨年末に、また今年になって訃報が伝えられたギュンター・ヴァント氏の二人が相次いで世を去った。
 この二人の名指揮者はもとより、20世紀の巨匠の多くはその音楽キャリアを上りつめた時にブルックナーの名演奏を残している。古くはクナパーツブッシュ、マタチッチ、ヨッフム、チェリビダッケ等の晩年の演奏は、今なお色褪せることなく演奏史上に輝いていることは疑いを持たないところであり、特に作曲家の生前に完成した最後の第8番の交響曲にはそれぞれの指揮者が特別の思い入れを持って接していることがその演奏からも窺い知ることが出来る。
 ブルックナーの交響曲へのアプローチとして話題になるキーワードとしては「宗教性」「巨大な構築感」「大自然との結びつき」などがよく挙げられるが、事実ブルックナーは終生変わらぬ敬虔なカトリックへの信仰を持ち続け、最後の未完に終わった交響曲は「愛する神」に献呈されることになっていた。
 ブルックナーは和声法、対位法などの音楽理論を完全にマスターしており、当時はオルガンの名手として知られ、とりわけ即興演奏に長じていた。ブルックナーの曲に頻出する大音響の後のGP(ゲネラルパウゼ:オーケストラ全体の休止)はオルガンのストップ(音栓)を操作する「間」に由来すると言われおり、ブルックナーを演奏するに際してこのGPの処理がかなり重要なポイントにもなるが、自身もこのGPについて「大事なことを言うときにはまず息を吸い込まねばならない」と話していたと伝えられている。 また、ブルックナーの音楽は「非文学性」とでも言うか、物語の入りこむ余地が無く、絶対音楽に限りなく近い存在であり、その純粋な形式美が生命とも評され、その意味ではブルックナーの音楽は、生涯敬愛したワグナーの音楽とははっきりと線引きが出来て、むしろ生前敵対したブラームスに近いようにも思われる。
 ブルックナーの交響曲には優れたアダージョの楽章が多く、とりわけ第8番の長大な第3楽章(チェリビダッケの最後の録音は何と35分を要している)は神に最も近いとも感じられるが、アダージョの楽章には作曲者により記されFeierlich Langsam(おごそかにゆっくりと)の表記が多くあり、これをいかに表現するかが演奏全体の評価を決定するカギにもなる。すなわち前述の巨匠や、豊富な経験を有する指揮者等による深い呼吸と奥行きが感じられる棒さばきでないと表現できない何かがそこに存在するのだ。
 また、ブルックナーの交響曲の特長として顕著なのが「ブルックナー開始」といわれる弦楽器のトレモロ(弓を小刻みに動かす奏法)が多用されていることで、第4番「ロマンティッシュ」や今回の第8番がその典型で、弦パート譜のかなりのページがトレモロに費やされている。
 ここで人間ブルックナーに少し触れると、彼は生涯独身を通したが(独身で終わる作曲家のなんと多いことか)自身は決して独身主義を標榜したわけではなく、女性への憧れは人一倍大きく、数度にわたり年齢のかけ離れた若い女性に求婚し、彼女らのために数曲が作曲されたが、気の毒なことに求愛はその都度退けられてしまう。またブルックナーは酒食の席を好み(かなりの大食漢だった)それは往々にして深夜深更に及んだ。(このあたりは非常に共感を覚える)このような人間味あふれるブルックナーと、神に捧げられるような「気品」に満ちた音楽との間の、芸術作品とその創造者との乖離については、他の芸術の例と同様に説明の及ぶところではない。   
 さて、今回は飯守氏とは1995年以来2度目の第8番となるが、前回の定期公演での演奏は欧州各国での長年の音楽経験と厳格な和声感覚に裏付けられた氏の指揮により、我々にとっても何事にも変えがたい貴重な喜びと経験となった。来るべき7月13日には霊感あふれる音響と共にブルックナーの醍醐味を心行くまで味わいたい。今回はノヴァーク版第2稿により演奏される。


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