2003年3月維持会ニュースより


「エドモンド・ドゥ・ポリニャック公爵夫人」

土田 恭四郎(Tub)


 今回演奏するクルト・ヴァイルの交響曲第2番のスコアには、エドモンド・ドゥ・ポリニャック公爵夫人(Princess Edmond de Polignac)に献呈と記載されている。ポリニャック公爵夫人の委嘱によりこの曲ができたわけだ。
 「ポリニャック」と聞くと、筆者はいろいろ反応してしまう。まずは酒好きなところで、フランスのコニャック(ブランデー)にブランド名として「ポリニャック」がある。このお酒、西暦860年から続くフランスの名門貴族でヨーロッパの代表的旧家であるポリニャック家が1947年に「家名と紋章を製品に使用しても良い」という了承を与えた事に起因しており、XOとかVSOPとかの他に「プリンス・ユベール・ドゥ・ポリニャック2000」という確か1万円くらいするコニャックで、星座をプリントしたデキャンタに時計がついた美しいボトル入りの限定品がある。
 また、フランスのシャンパンメーカーのポメリー社に「ルイーズ」という最高級のシャンパンがあるが、これ、1870年以降ポメリー社の事業発展に貢献したマダム・ポメリーの娘で、プランス・ド・ポリニャック公爵と結婚したルイーズの名にちなんでいる、なんてうんちくを連想した。因みにこのシャンパンのラベルが白い紙に婦人の絵を浮き上がらせたシンプルなデザイン、この白い婦人像こそ、20歳頃のルイーズの容姿だと言われている。
 そして、筆者が「ポリニャック」に一番敏感に反応してしまうのが、漫画やアニメ、宝塚で一世を風靡した「ベルサイユのバラ」の登場人物「ポリニャック伯爵夫人」(マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポリニャック)である。貧乏貴族の娘だがマリー・アントワネットに気に入られ、穏やかな表情で「私にはアントワネット様がついているんですもの」と、やがて彼女を操って贅沢の限りをつくし、宮廷で権力を我が物にした最大の悪女。あのオスカルでさえもその横暴を止めることのできなかったポリニャック伯爵夫人。有名なせりふ「文句があるなら、いつでもヴェルサイユへいらっしゃい。ヴェルサイユへ!」とともに、このキャラクターは永遠といえよう。事実、革命勃発後には真っ先に国外に逃亡してその責を問われなかったというではないか。
 さて、本題に戻るが、コニャックのブランドに名を残すほどの名門貴族の一員であるポリニャック公爵夫人のことを調べてみたら、でるわでるわ、こんなにすごい、いや、すばらしい貴婦人であった。
 ポリニャック公爵夫人(1865―1943)、父はかの「シンガーミシン」で有名なミシン王のアメリカ人アイザック・メリット・シンガー、母はシンガーの二度目の妻でフランス人のイザベル・ボワイエであり、本名はウィナレッタ・シンガーという。細かいところは省略するが、とにかく最初の貴族との結婚が破綻して、エドモンド・ドゥ・ポリニャック公爵(1834―1901)と1893年に再婚した。彼女は、小さいときからパリにて音楽を学び、絵画、ピアノ、オルガン、作曲を物にしたアマチュアではあるが多才な女性であり、夫のポリニャック公爵も音楽を愛し自らも作曲をした芸術を愛する人物であった。ポリニャック家は、冒頭に記載した通りのフランスを代表する由緒正しい名門貴族の家柄だが、この時代は既に斜陽貴族であり、音楽という共通の趣味を持ち、ミシンを発明して莫大な財産を築いた父の遺産を相続した若い妻との再婚は願ってもないことだろう。  当然周囲の陰口を生んだに違いない。公爵が彼女と結婚にふみきったのは、彼女の絵画コレクションの1部であるモネの「七面鳥」を手に入れるため、と噂されたそうだ。しかもこの夫婦の年の差は31、1901年に公爵が他界し、彼女は36歳にして未亡人となってしまう。
 当時のパリは、貴婦人達がさまざまなサロンを主催した時期だった。音楽に縁の深い貴婦人達の自宅のサロンには、当時を代表する文化人、作曲家のたまり場となり、そのようなサロンにポリニャック公爵夫妻も常連として参加、社交の場を形成していった。例えばあるサロンでは、金曜日にはディナーの後に形式ばらないレセプションがあって、その場でドビュッシーとアンドレ・メサジェが連弾を披露、周囲にはフォーレ、シャブリエ、ダンディ、ショーソンなどがいた、という風に、当時の重要な作曲家達はほとんどこれらのサロンに顔をだしていたらしい。(まさにフォーレの繊細で微妙な音楽は、サロンという閉鎖的な空間の中で生まれてきたことがよくわかる。)ポリニャック公爵夫人も、その本来持っている気質、すなわち芸術に対する素養から当然サロンを主催し、芸術家への援助を惜しまなかった。
 彼女のサロンはもちろん華やかな社交の場ではあったが、特長として積極的な作品の委嘱があげられる。すなわち新しい作曲家に作品を委嘱し、自分のサロンで初演するというプロデュース活動である。彼女のこのようなプロデューサーとしての本領が発揮され本格化するのはポリニャック公爵の死後であり、彼女のサロンはまさに芸術創造の場として新しい時代の幕開けとなった。彼女の莫大な財産とリハーサルができる広大な邸宅という環境も幸いしたにちがいない。
 彼女が係わった作品を調べると、とにかくすごい。まず有名なのはフォーレの献呈による「ぺレアスとメリザンド」、委嘱ではないがフォーレが彼女に献呈した「五つのヴェネチアの歌」、ラヴェルの献呈による「亡き王女のためのパヴァーヌ」、ディアギレフ率いるロシアバレエ団に興味を持っていた彼女にとって当然といえるストラヴィンスキーへの委嘱「狐」、また委嘱ではないが「結婚」は彼女の邸宅で初演、「ペルセフィーヌ」「エディプス王」も私的な演奏を実施。サティへの委嘱「ソクラテス」、もっとも親しかったプーランクへの委嘱「2台のピアノのための協奏曲」「オルガン、弦楽オーケストラ、ティンパニーのための協奏曲」、ファリャへの委嘱「ペドロ親方の人形芝居」、ミヨーへの委嘱「オルフェの不幸」、ジャン・フランセへの委嘱「12管楽器のためのセレナード」、タイユフェールへの委嘱「ピアノ協奏曲」、アンリ・ゾーゲ「愛と偶然の戯れ」、私的な試演をしたヒンデミット「コンチェルトムジーク」、サロンで演奏されたイゴール・マルケヴィッチ「ピアノ協奏曲」等々。シマノフスキーもポーランド語のテクストに基づく作品を委嘱され、結局実を結ばなかったが後日別の形として作られた「スターバト・マーテル」。そして今回新響が取り上げるクルト・ヴァイルに委嘱した「交響曲第2番」、この曲はドイツから逃げてきた彼を援助するために彼女が作品を委嘱したのである。
 作曲家ばかりではない。サロンに係わった演奏家もすごい。アルトゥール・ルービンシュタイン(彼女と連弾をした)、クララ・ハスキル、ディノ・リパッティ、そしてクラヴサン奏者として彼女のサロンでの交流をもとにファリャやプーランクにクラヴサンの協奏曲を委嘱したワンダ・ランドルフスカ。後は、教育者として門下から多くの名演奏家や作曲家を輩出したナディア・ブーランジェもサロンで交流を深めた1人であった。
 また、彼女はモナコとも縁がある。ポリニャック家はモナコ大公と親戚関係にあり(まあヨーロッパの王族・貴族は皆親戚みたいなものといえよう。)、第1次大戦後に前述のディアギレフをモナコに紹介しているが、これが形を変えてモンテカルロバレエ団創設へとつながっていく。
 このように、国際都市パリを反映するような、いろいろな国の作風の異なった芸術家が彼女のサロンで集い、そして当時の前衛の旗手達によってそこから誕生した作品は、ハイドンやモーツァルトの時代のような、作曲家が貴族のお抱えとなって貴族のためだけに作曲した音楽とは本質的に異なる、新しい時代にふさわしい発想による芸術の創造によるものだった。そして彼女のサロンは音楽が生み出された実験工房としての役割を担ったにちがいない。新しい時代を切り開いたこのようなプロデュース活動を通して、彼女は歴史上最後の大物パトロンでプロデューサー、プロモーターといえよう。
 その後のポリニャック家はどうなったかというと、公爵夫人の次世代として登場するのは彼女の甥・姪にあたるジャン&マリー=ブランシュ・ドゥ・ポリニャック伯爵夫妻で、彼らもこのようなメセナ活動に尽力し、プーランクとも親しい間柄にあったという。因みに、この伯爵夫人は有名なブランド「ランヴァン」で知られるデザイナー、ジャンヌ・ランヴァンの娘で、夫の死後ジャン・ドゥ・ポリニャック伯爵と再婚した。モナコとの関係でいえば、ピエール・マリー・グザヴィエ・ドゥ・ポリニャック伯爵がモナコ公女のシャルロット・ルイーズ・ジュリエットと結婚し、長男が現モナコ公国の元首レーニエ3世である。こうして芸術支援の息吹はモナコにまでつながっている。
 ところで、冒頭に記したポメリー社の現在の醸造最高責任者は、シャンパン「ルイーズ」のモデルとなったポリニャック公爵夫人ルイ―ズの曾孫に当たるアラン・ドゥ・ポリニャック公である。「シャンパンを造ることは芸術である」というポリニャック家の伝統のもと、8代目として創業に参画している。この1836年創立のポメリー社を発展させた前述のマダム・ポメリーもすごい。1858年当主で夫のルイ・アレクサンドルが急逝した為、39歳の未亡人マダム・ポメリーが事業を継承した。彼女は事業拡大を図るが、彼女で大丈夫だろうかとの噂が流れ、金融関係が融資に二の足を踏んでいた。そこで彼女はこの噂を打ち消すべく、なんと30万フランでミレーの名画『落穂拾い』を購入しルーブル美術館に寄付したのだ。これを機に融資は順調、そして前述の通り娘のルイーズがポリニャック家に嫁いだ事もあり、その後の確固たる地位を築き上げた次第である。ポリニャック公爵夫人もマダム・ポメリーも、その先見の明、大胆さ、度量の深さを持ってしての女傑ぶりには共通したものを感じ入る。進歩的な作品の委嘱活動もシャンパンを造ることも「芸術」というキーワードで一致している、ということであろうか。
 いずれ、ポリニャック公爵夫人をキーワードにした、彼女と関係のある作品が網羅された演奏会を企画して往時の新奇性に触れ、サロンの雰囲気そのままに幕間にシャンパン「ルイーズ」を嗜む、といった贅沢な時間に浸りたいものだ。



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