2003年6月維持会ニュースより
『奥の細道』を演奏する喜び
森 創一郎(フルート)
『閑かさや 岩にしみ入る蝉の声』
松尾芭蕉が山形市の立石寺(山形藩)を訪れたのは、1689年7月13日(陰暦の5月27日)の夕暮れ時。ちょうどこの維持会ニュースが皆様のお手元に届く時期のことです。静まりかえった宝珠山の岩場にそびえる本堂を前に、芭蕉は寺を開いた慈覚大師(平安初期の高僧。法名は円仁)に想いを馳せながら、蝉時雨の中でじっと佇んでいました(因みに、この句に描かれる蝉はニイニイゼミなのだそうです)。
私は大昔、中学校の宿題か何かで「奥の細道」を全編読まされた覚えがありますが、今回この曲を演奏することが決まり、何をどう表現すればいいものかと戸惑い、まずは改めてこの作品をひも解くことにしました。「年を取るごとに同じ本でも味わい方が変わる」とよく言われます。多聞に漏れず、私もこの再読で、いまさらながら芭蕉の想像力の広がりとその力を生々しい"体験"として感じ取ることになりました。次の句などはその体験を味わった典型的なものでした。
『田一枚 植ゑて立ち去る柳かな』
栃木県那須郡の芦野に「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」と、その昔西行法師が詠んだ柳があります。西行法師の旅行脚から幾星霜、ここを訪れた芭蕉は、西行の「立ちどまりつれ」に「立ち去る」と応じたのだそうです。
元禄の旅の空で芭蕉はなおその柳の下でたたずむ西行法師の霊と出会い、同じ眼差しを田植えをする村人に投げかける(自ら田植えを手伝ったという説もあるそうです)。さらにそこに留まる西行の霊に別れを告げ、芭蕉は立ち去っていく―。そんな幻想的な時空の交錯の妙をこの句で味わい、時間の主観性を考えさせられるきっかけになりました。俳句が持つ奥深さを今更ながらに実感したわけです。
かつて中学校の授業でも同じような解説を教師から聞いたような気がしますが、居眠りをしていたのか、ほとんど記憶にありません。もったいないことをしたものだと、反省することしきりです。
冒頭の「閑かさや」の句、「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」なども、こうした時間の交錯を想像させる名句ですが、こうした句から、湯浅譲二先生の交響組曲『奥の細道』が生まれました。この作品の初練習に臨んだ時、西行法師の霊と芭蕉が対話した柳の下のように、練習場が湯浅先生が芭蕉と対話する不思議な空間となっているような気がしました。その生き生きとした現場に立ち会うことは、演奏者として幸せであり、興奮を覚えます。
ところで先日、湯浅先生にお会いして、氏の音楽と芭蕉との関わりについて、じっくり伺う機会を得ました(詳細は演奏会当日のプログラムに掲載予定)。しかし、先生がいくら言葉を尽くされてご自身の音楽世界を説明されても、言葉によっては、先生の音楽それ自体を決して理解することはできない、逆に、先生の音楽は言葉による把握を拒否しているとさえ言えます。インタビュー後、いわば「快い虚しさ」を感じたのも、そのせいでしょう。
例えば、『奥の細道』の中に、私はどうしてもそれが蝉の鳴き声にしか聴こえない部分があります。しかし、それについても先生は「それは蝉であっても蝉でなくてもいい。むしろ存在の厳しさのようなものの表れです」と言われます。音に対して、「蝉」と概念化されることを拒否されているのです。先生の音楽の本質を伺ってみると、そのことがより深く理解されます。
作曲家の故/武満徹氏が,音楽が生まれる源は「愛」と言ったのに対して、先生は、「宗教的な世界を人間が持つところ」と言われました。人間が言葉を獲得し、自己と客観を意識する以前、自己と外界、主観と客観が渾然一体となった「内触覚的宇宙」の内で、その宇宙、自然への畏怖感、祈りから音楽が生まれ出る。
私はそこで西田幾多郎の「善の研究」に出てくる、「純粋経験」を思い出しました。禅を深く追求された先生と西田哲学が重なって見えたのです。ここで西田と先生の思索について比べる意味はありません。しかし、音楽は、それ自体が祈りであり、「純粋経験」、「始源」的世界そのものです。そのことは、古来から何人もの哲学者たちが認めてきた、音楽という芸術が持つ、大きな特権とも言えます。
幸いに、今度の演奏会で我々は音楽を奏で、それを聴くことができます。直接、湯浅先生の祈りに触れ、参加することができるのです。それは私にとってこの上なく幸福なことでもあります。そんないくつもの幸せを噛みしめながら、今回の演奏会に臨むことができそうです。