2003年1月演奏会パンフレットより
曲目解説
プログラムノート
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
松下 俊行(フルート)
寄笛恋(笛に寄する恋)
笛竹の声の限りをつくしても
なほ憂(う)き伏(ふ)しや夜々に残らむ
古歌
笛に寄せる恋。笛の音(ね)に伝える恋情…言葉を得る以前、声の良否が恋の武器であった頃の遠い記憶が、言葉にならぬ言葉を伝える術として人に蘇るのだろうか?恋と笛とを結びつける話はあまたあり、時空を超えてそれぞれに味わい深い。
『枕草子』に「笛は〜」という段があって「後朝(きぬぎぬ)の別れの後、男が忘れていった見事な笛を枕辺に見つけるのも風情がある」などと書いてある。笛に呼び覚まされた回想…人を待つ夜の静けさ。やがて近づいた笛の音と共に忍んで来た男の姿や声音(こわね)。衣服の色あいと焚きこめられた香り。そして遺された笛を介してこの後交わされたであろう歌の言葉…などなど想像すると、恋の余韻を相手に伝え残す道具立てとしては、なかなかに気が利いている。洗練された王朝文化の機微の一端を垣間見るようだ。女性の部屋に招かれた僥倖(ぎょうこう)に舞上がり、勧められるままに酒杯を重ねた挙げ句、うっかりフルートを忘れてくるというのでは駄目なのだ。やはり(苦笑)。
『徒然草』第九段には「女の足駄(あしだ)で作った笛の音には、(妻を恋う)秋の鹿が必ず寄ってくる」とある。この段はそもそも著者の女性観とも言うべきものが主題であり、笛の事は一例として出ているに過ぎない。他にもこの楽器の登場する段がいくつもあるのだが、この記述は笛にまつわるそこはかとないエロティシズムを感じさせ、格別の印象を僕に与える。
ギリシャ神話に登場するパン(Pan)の吹く笛も恋情を伝える役割をしている。半獣半人の姿の彼は、牧人と家畜の神でありながら山野に美少年や妖精(ニンフ)を追いかける好色性を併せ持ち、この呼びかけの道具として葦笛を使う。この笛をシュリンクス(syrinx)と言うが、これはかつて彼の追跡を逃れようとして葦に変容した同名のニンフであったという伝説がある。また、この神は午睡を好む。その娯しみを妨げられるとその怒りは、譬(たと)えようもない恐怖となって人々に襲いかかった。英語のPanicの語源はここにあると言う。
ステファヌ・マラルメは10年の曲折を経て、上の神話を踏まえた『半獣神(牧神)の午後』を書き1876年に自費出版する。この詩の主題はふたりのニンフとの、言わば恋の駆引きをめぐる牧神の情慾と妄想にほかならない。
詩と音楽と
ドビュッシーは意外にも苦学力行の人である。音楽とはおよそ無縁の貧しい境遇に生まれ、10歳で音楽院に入学した後も絶えず学資の獲得には悩まされた。そうした彼とってローマ大賞受賞による2年間のイタリア給費留学は、幸運以外のなにものでもなかった筈だが、元来伝統的な音楽の語法に飽き足らぬ身には、何ら実り無きものに終わった。そして1887年に失意のうちにパリに戻ると、それまでの「音楽」との訣別を確信し、数年の模索の時代を過ごす事になる。P.ブーレーズが「意志による独学主義」と評した彼のこの姿勢。その模索の中でマラルメに代表される象徴派詩人達との親交を得る事になる。彼は音楽家としては唯一、彼らのサロンへの出入りを許されるが、この出遭いこそが音楽に新しい窓をあける契機となったのだ。彼は『半獣神の午後』に触発された音楽を、前奏曲・間奏曲・敷衍曲(パラフレーズ)の三部作として計画した。結局1893年にこの『前奏曲』のみ完成したが、それで充分だった。
牧神のまどろみの中に物語は始まる。彼の奏でる葦笛の空(うつ)ろな音が、けだるい午後の水辺を渡ってゆく。その音の行く末の汀(みぎわ)に眠るふたりのニンフ。牧神は様々な想念と情念を秘めてふたりに挑みかかる。幕を開ける両者の駆引。遁走と追跡。そして遂に牧神は彼女らを掌中に収めようとする…が、ここぞという処で、抱擁からすり抜けられて果たせない。この間の激しい情念と動きは牧神の笛に仮託されるのみ。ふたりとの対話もないまま、ひたすら彼の陶然とした独白のうちに展開する無言劇…遂には魂の甲斐無き昂揚も果て、周囲には懶(ものう)げな午後の静けさだけが残る。
僅か10分足らずの間に繰り広げられる110小節の音の情景は、詩の内容への具体的な対応を意図していないにも関わらず、聴く者の裡(うち)に確かな心象をもたらす。それは「印象」などという曖昧なものとは明確な一線を画す、言わば音楽に結晶した言葉の姿とさえ思えてくる。ここに我々は「音楽的な詩」と「詩的な音楽」との境界を超えた、まばゆいばかりの融合の奇跡を見るべきだろうか?
そしてこの奇跡は短く儚(はかな)い。儚いが故にそれは一層聴く者の心をとらえ、消えゆく音に対し愛惜に似た感情を呼び起す。この感情は譬えてみれば、半(なか)ばにして覚めた美(うま)し夢に対する追憶にも似ていよう。夢…そうだ。確かに夢なのだ。そこに気づく時、この音楽に喚起された我々の心象は、牧神のそれと既に渾然(こんぜん)となっている。
笛の音が戻ってくる。空ろな笛の音に寄せた牧神の現無(うつつな)き恋情は、我々の心に生じた幽(かす)かな昂(たか)まりを誘(いざな)って、再び彼の午睡の夢の中にまぎれてゆくのである。
初演:1894年12月22日パリにてギュスタブ・ドレ指揮。
楽器編成:フルート3,オーボエ2,コールアングレ,クラリネット2,ファゴット2,ホルン4,サンバル・アンティーク,ハープ2,弦5部
プーランク:バレエ音楽「牝鹿」より抜粋
桜井 健(パーカッション)
フランシス・プーランク・・・。
今日この会場に来られているお客様の中に「この作曲家の作品は聞いたことがない」という方が、どれぐらいいらっしゃるでしょうか? 私はその方がうらやましくてなりません。愛すべきプーランクの音楽にこれから出会う幸せを体験できるなんて。
1899年にパリの街のど真ん中で生また生粋のパリジャン、私の大好きな作曲家フランシス・プーランクは1963年に没していますので、辛うじて私は彼と「同じ時間の空気」を吸っています。その意味では「同時代の作曲家」で、「現代音楽」と言えるかもしれません。けれども、プーランクの音楽を聴くのに、特別な知識や準備や身構えは全く要りません。彼の紡ぎだす音楽は、喜びと頓知と遊びに満ちています(時々悪戯にも)。
フランス6人組(ジェルメーヌ・タイユフェール、ジョルジュ・オーリック、ルイ・デュレー、アルトュール・オネゲル、ダリウス・ミヨー、そしてフランシス・プーランク)というような言われ方がよくされますが、これは彼らの音楽を紹介しようとする人たちが、マーケティング戦略として、ロシア5人組にあやかって付けたキャッチコピーだったようです。彼ら6人はもちろん、友人としてとても仲が良かったことは事実ですが、音楽の趣味と傾向は、実際には随分と違います。サティの影響下にあるように括られたりしますが、プーランクによれば「オネゲルはサティの音楽を嫌っていた」そうですし。
プーランクは早熟の作曲家でした。子供の頃からピアノには才能を発揮していましたが、8歳の時にドビュッシーの「神聖な舞曲と世俗の舞曲」に熱狂し、12〜3歳頃にはストラヴィンスキーのバレエ3部作への熱病に感染します。このあたりは芥川也寸志の少年時のストラヴィンスキーとの出会いとも共通するエピソードですが、芥川が父龍之介所蔵のSPレコードを聞いて感染したのと違って、幸いにも1910年代にパリっ子であったプーランクは、当然ながら全て実演によって感染するのですが。
1917年18歳のときに、「黒人の狂詩曲」"Rapsodie Negre"という曲がコンサートで演奏されたのが、楽壇への実質的なデビューです。この「黒人の狂詩曲」は、当時流行していた異国趣味を反映した、デタラメの「黒人語?」の詩集を歌詞とした曲です。演奏会本番では歌手がこのデタラメな歌詞のあまりの恥ずかしさに、当日突然逃げ出してしまうという椿事に、プーランク本人が歌ってしのぎます。兵役に付くことが決まって既に入営済みだったため、なんと彼は軍服を着たまま舞台にあがり「データラーメ、データラーメ!」と歌ったのです。(「デタラメ外国語」については新響の宴会にご参加いただけると、より一層ご理解いただけるのですが、お伝えできないのが残念です。)
しかし「黒人の狂詩曲」は聴衆を熱狂させ大成功でした。青年作曲家プーランクの名はパリ楽壇の人々の記憶に刻まれることになります。
ラヴェル、ストラヴィンスキーも絶賛します。
中でも重要だったのはロシア・バレエ団を率いるセルゲイ・ディアギレフです。彼は「どこかに誰か有能な若い作曲家はいないものか」と、常に耳を皿のようにして探していました。そのディアギレフがプーランクに目をつけたのです。ラヴェルは「何という才能だ。しかしこれからの勉強が重要だ!」と語りました。しかし兵役のため、実際に作曲を本格的に勉強し始めたのは、4年後の1921年にミヨーの薦めでシャルル・ケクランに師事してからでした。(ケクランも素敵な作曲家ですよ。)
そして1923年は、プーランクにとって決定的な年になります。あの(あこがれの)ディアギレフから、バレエ「牝鹿」の依頼が来たのです。「レ・シルフィード(ディアギレフ・ロシアバレエ団のためにショパンのピアノ曲をグラズーノフなどが編曲した)の現代版のような曲を・・・」、という依頼でした。このバレエ「牝鹿」には特に筋書きはありません。バレエの題名「レ・ビーシュ」(牝鹿たち)は「若い娘たち」の意で、俗語で「かわい子ちゃん」といった意味らしいです。
舞台美術と衣装はマリー・ローランサン、振付はニジンスキーの妹のニジンスカ。バレエはもちろんロシア・バレエ団。16人の娘たち(=牝鹿たち)と3人の青年が戯れる、プーランクの言葉を借りれば「雰囲気のバレエとでも言うべき」もので、ニジンスカの振付も、どのような色恋のやり取り、展開があるのかは、明確には読み取れないようなもので「ほのめかしの芸術」といったものだったそうです。
それにしても、ディアギレフの果たした功績を振り返ってみると、もしも彼がいなかったら、今日の我々のコンサート・レパートリーはどうなっていたでしょうか? この「牝鹿」に限らず、ストラヴィンスキーのバレエ3部作もない、ラヴェルのダフニスとクロエもない、ファリャの三角帽子もない、随分と寂しいことになってしまったでしょうね。
バレエ音楽「牝鹿」はプーランクの代表作と言ってもよい作品になりました。若書きですが、才気溌剌、軽妙洒脱、そして時として聞き手をはぐらかし、驚かす意外な展開。一瞬調性がわからなくなるような、複雑な和声の不安定感のスパイスを効かせたかと思うとまた、飄然と平明な音楽に戻る。そんな彼の音楽の特質が如何なく盛り込まれ、ウキウキとして、そしてちょっと不思議な気分にさせてくれます。
しかしこの曲は、このときまだ2年ほどしか作曲の教育を受けていない24歳の青年が「生まれて始めて書いたオーケストラ曲」なのですから、まさに驚きではありませんか。フルオーケストラの曲を書いたのはこの曲が始めてなのです。
作曲家本人は「ラグ・マズルカ」などにはストラヴィンスキーの影響があると、謙遜して言っていますが、十分プーランク自身の手法になっていると思います。
全曲は9曲からなり、ストーリーはないので、それぞれの曲は独立していて、元々のバレエ自体が組曲のような体裁なのですが、1940年にプーランクは9曲の中からロンドー、アダージェット、ラグ・マズルカ、アンダンティーノ、終曲の5曲を抜粋して組曲版作っています。
本日の演奏会では、さらに冒頭に「序曲」を加えて6曲を演奏させていただきます。バレエの雰囲気を少しでも感じていただければ幸いです。そして「プーランクって初めて聞いたけど、結構楽しいな。」と思っていただけたら幸い。是非プーランクの他の作品も聴いてみて下さい。フランス音楽の楽しさの新たなページを開くことができます。
参考文献:
アンリ・エル著「フランシス・プーランク」春秋社
ステファン・オーデル編「プーランクは語る」筑摩書房
初演:1924年1月6日、モンテカルロ劇場にて、エドゥアール・フラマン指揮
楽器編成:ピッコロ,フルート2,オーボエ2,コールアングレ,クラリネット2,バス・クラリネット,ファゴット,コントラファゴット,ホルン4,トランペット3,トロンボーン3,テューバ,ティンパニ,大太鼓,シンバル,小太鼓(響き線なし大・小),小太鼓(響き線あり),タンブリン,トライアングル,グロッケンシュピール,チェレスタ,ハープ,弦5部
ベルリオーズ:幻想交響曲
ルネ・アムラム(ヴィオラ)
エクトル・ベルリオーズに関しては、音楽史家がいろいろ書いているし、また作曲家自身、すばらしい自伝小説的な「回想録 Meoires」を残している。ベルリオーズは彼のスコアの放縦さからも分かるように、あふれる想像力で「時代を先取り」している。しかしスコアの奥底には、旋律の純粋さや、「回想録」の中で彼が問いかける「愛と音楽のどちらが人を最も崇高なところに到達させ得るのか」という大きな対立概念(愛と音楽)への彼の対応能力が秘められている。彼は自分のこの問に対して、「これは問題だ。しかし『愛は音楽を表現できないが、音楽は愛を表現することができる』というのが答のようにも思える。だがなぜ、ふたつを区別しなければならないのか、二つは魂の両翼であるのに。」と自答しているのである。
シェークスピア作品の登場とベートーヴェンの存在は、ベルリオーズと19世紀ロマン派の芸術家たちに大きな影響を与えた。ベルリオーズは後に「回想録」の中で次のように書いている。「べートーヴェンは私の前に音楽の新たなる扉を開いた、シェークピアが新しい詩の宇宙を発現させたように...」
ベルリオーズはピアノを習ったことはなかったし、ヴィオラも弾けなかった。パガニーニから2万フランもの寄贈を受けたもう一つの傑作「イタリアのハロルド」を書いているのにもかかわらずである。(パガニーニは最初、この作品は演奏技巧的にはおもしろくないと考えたが、最後には曲そのものの美しさに魅了されてしまったのである)。
ピアノに関してベルリオーズは語っている:「私は、静かな中でまったく自由に作曲できることに対して、幸運の星に感謝したいぐらいだ−創造的に作曲することを徹底的に台無しにしてしまう指使いの暴虐から私は救われている...」。我々がいま分析を進めている、本日新響が演奏する「幻想交響曲」(最もよく知られた27歳の時の作品である)を作曲したベルリオーズとはこんな人物である。
1830年12月5日、初演に際してベルリオーズは演奏に先立ち、聴衆にこの交響曲の表題について書いたものを渡した。そこにはこの音楽が描写する物語のあらすじが書かれており、こういうことは演奏会慣れしている観客にとっても初めてのことであった。聴衆は喝采し、行進曲楽章のアンコールを口々に求めた。
この交響曲は交響曲が表題をもつという点で、ベートーヴェンの第6をのぞいては全く前例を見ないものであった。この作品でベルリオーズは、ロマンス・舞踏会・断頭台・最後の審判のラテン語のテキスト(怒りの日)を持った終楽章を物語る。この怒りの日の主題はサン=サーンス、ヴォーン・ウイリアムズ、モーツァルト、そしてヴェルディなど多くの作曲家に繰り返し使われたものである。
この曲のスコアには、「ある芸術家が恋の絶望から阿片自殺を試みるが失敗し、深い眠りの中で奇怪な幻想を見た。恋人は一つの繰り返される旋律“固定楽想(Idee
Fixe)”として表される。」と記されている。
夢・情熱:第1楽章の50小節目で、ヴァイオリンのユニゾンによって演奏される彼の“固定楽想”がそれぞれの楽章に現われる。
舞踏会:彼は舞踏会におもむく。しかし、華やかな喧騒は彼を落胆させる。ワルツの主題にのって、“固定楽想”が戻ってくる。求めても得られない恋人を彷彿とさせながら。
野の情景:田舎でただ一人、彼は2人の牧夫に奏でられる角笛の美しい2重奏を聞く。しかし、ここでも愛する人は自分のものではないというおそれにも似た“固定楽想”が聞こえてくる。
日は沈み、雷が鳴り、孤独と静寂が眠りとともに訪れる。コールアングレとオーボエが角笛吹きをあらわす。“固定楽想”はチェロとヴィオラに現われ、ヴァイオリンとフルートが発展させる。
断頭台への行進:彼は自殺を図る、それは失敗するが麻薬による夢の中で、自分が恋人を殺し、死刑を宣告されるのを知る。この楽章はクラリネットに奏される“固定楽想”とそれに続く断頭、長調での明るいファンファーレで終結する。(音楽の世界ではしばしば、罪を死によって償った者への救済として、短調から長調への転調が使われる。)
魔女の宴会の夜の夢:“固定楽想”はティンパニを伴った独奏クラリネットにまず演奏される。愛する女性は今や魔女の中に混じって芸術家の埋葬の証人となる。その後、遠くに響く葬送の鐘とともに演奏される「怒りの日」が徐々に速度を速めながら繰り返される。続くヴァイオリンとヴィオラのコル・レーニョ(弓の木の部分で演奏すること)が骸骨の舞踊を模し、魔女の勝利を高らかに告げるクライマックスで楽章が終わる。
さて、個人的な話で恐縮だが、私はこのすばらしい曲にはずいぶん小さいころから親しんできている。まだフランスにいたころの話である。父はレコードのマンスリークラブに入っていて、そこから毎月いろいろな音楽の78回転SPレコードが勝手に選ばれて送られてきていた。私は椅子の上に立ちあがって…レコードプレーヤーに背が届かなかったのだ…竹の針(金属針よりずっと良い)を削って、ハンドルを必死に巻いて、この音楽を聴いたことを思い出す。どこでレコードを裏返さなければならなかったかも良く覚えている。“固定楽想”のことは何も知らなかったが、ギロチンの場面や魔女にはちょっと怖かった。そして、椅子の上に立って指揮の真似をしていた。レコードの裏返し作業で中断しながら。あの夢見心地のときにも、私は自分が後にこの曲を演奏することになろうとは思っても見なかった…。
和訳:名倉 由起司
初演:1830年12月5日、パリ音楽院ホールにてアブネッタ指揮。
楽器編成:フルート2(ピッコロ持ち替え1),オーボエ2(コールアングレ持ち替え1),クラリネット2,変ホ調クラリネット,ファゴット4,ホルン4,トランペット2,コルネット2(独奏付),トロンボーン3,テューバ2,ティンパニ4,大太鼓2,シンバル,小太鼓,鐘,ハープ2,弦5部