2003年10月演奏会パンフレットより
「ピアノは歌う楽器である」=ロシア音楽教育の真髄に迫る。
―モスクワ音楽院ピアノ科:海野奈都子さんに聞く
今日は、モスクワ音楽院ピアノ科に留学中(インタビュー当時3年生)の海野さんに、モスクワ音楽院のことや、ロシアの音楽教育などについてお話を伺います。(海野さんは、183回演奏会の練習においてラフマニノフの代奏をお願いしています。)
Q:本日はどうもありがとうございます。まずは、モスクワ音楽院についてお聞かせください。
海野 こちらこそありがとうございます。モスクワ音楽院はロシア人が音楽家を目指す場合の到達点で、グネシン音楽院と並び称されるロシアの代表的音楽院です。ピアノ、ヴァイオリンなどのソロ楽器のレベルが高いと思います(アシュケナージ、プレトーニョフ、レーピンなど輩出)。
Q:ピアノ科は何名ぐらいいるのですか。
海野 ロシア人は枠があって一学年30名で5学年150名。一方留学生のほうは枠がなく、私の学年ではピアノ科の留学生が20名ぐらいです。各学年でばらつきがありますね。国別では韓国が多くて、その次が日本や中国です。東洋人は増えていますね。
Q:音楽院の教育の特色は何ですか。
海野 生徒に演奏させる機会が非常に多いことです。レッスンを多く受けることも義務ですが、それに加えて先生たちは気軽に生徒の演奏を聞いてくれます。コンクール前で舞台経験が必要な生徒たちには週一回でも二回でも先生たちが学校のホールで聞いてくれます。演奏することがとても日常的である、という感じがします。
Q:モスクワ音楽院でのラフマニノフの位置づけはどうですか。
海野 彼自身は金賞で音楽院を卒業しています。スクリャービンと同期ですね。彼の作品は良く演奏されますがなかでも3番のピアノコンチェルトは学生達の憧れのようです。
Q:今回の演目「パガニーニ狂詩曲」についてはどうですか。
海野 ロシアでは、この曲をラフマニノフの第5のコンチェルトと考えています。国内でも、ピアニストの卵である優秀な子供たち(15、6歳)はすでにレパートリーにしているようです。
Q:音楽院のほかの学科の生徒と室内楽を演奏することはあるのですか。
海野 はい。ピアノ科は声楽の伴奏法と室内楽は、自分の実技と同様必ず先生について習得します。ピアノに関するすべて、オペラの伴奏をも含めて徹底的に教育されます。
Q:課題仕上げ期間についてはどうですか?
海野 一週間で仕上げろ、とか、とにかくローテーションが速く曲の量も多いので大変です。はじめて先生の前で弾く曲でも暗譜で。暗譜していないとレッスンは見てもらえません。つまり自分なりに仕上げてくることが前提なのです。私が今取り組んでいる大きな曲としては「展覧会の絵」です。
海野 ロシア文学、美術などです。ロシアの学生は、芸術に関することをよく知っています。
Q:試験(実技以外)はどういう感じですか。
海野 すべて口頭なのです。ほとんどのロシアの学校がそうです。そのいいところは、たとえ答えがよくわからなくても、自分の知っていることを洗いざらいしゃべってポイントを稼ぐことが出来る。だから、ロシア人はよくしゃべるし、話が長いのではないでしょうか。また、ユニークなところでは、「音楽あてクイズ」というのがあります。イントロや第二テーマなどを使って行います。対象は、交響曲、歌曲、オペラなんでも。
Q:海野さんがモスクワ音楽院を目指したきっかけは何ですか。
海野 両親とも音楽が大好きで、家でよくロシア音楽がかかっていました。それにバレエが大好きでした。だから小さいときからロシアというのは身近でしたね。それと、高校(桐朋)時代のロシア人教授(ボスクレセンスキー先生)のレッスンがとても興味深かったことでしょうか。
Q:ロシアのピアノ教育の特色は何ですか。
海野 ピアノを「歌う楽器」と位置づけていることです。レガートとか、ひとつの音をどれだけ伸ばすか、を徹底して教育されます。それに関連して、特徴その1:「メロディーと伴奏の差をつけろ」ということ。メロディーと伴奏の距離は、音の大きさのみならず音色の違いで差をつける、メロディーラインを明確に出す、ということ。「耳を直す、耳を変える」ことに苦労しました。特徴その2:「全体重をかけてピアノに向かう」ことです。上半身のみならず、全身を使って、大きい音でも小さな音でも、凝縮した音を要求されます。特徴その3:ピアノ科でとても重視されているのは「声楽の伴奏」です。卒業までに弾く歌曲が100曲ぐらい。卒業試験では、オペラの中の重要な部分を歌手と一緒に30分ほど演奏することが求められます。こういうところから声楽重視=歌というものに重きを置いていること、フレージング、歌詞、呼吸を重視していることがわかります。
Q:海野さんの先生はどういう特色がありますか。
海野 私の師トゥルーリは、論理的で、具体的。ノウハウを教えてその上で精神面を教えます。
演奏家に「自分はアーティストであるという自覚をもたせることが良い教師であると師は常々言っています。もうひとつ、師が言うには、教育者としての使命として、3つのグループを育てることがあり、それは(1)演奏家になる人(天賦の才能が豊か、世界で活躍する人間)、(2)その才能を見つけ出すよい指導者、(3)よい耳を持った聴衆(芸術とはどういうものか、を理解できる)、以上の3つです。日本などは、コンクール重視、テストの成績を重視して、それが目的となる傾向が強いですが、ロシアでは、とにかく音楽を次の世代に伝えるということが重要です。
Q:先生と生徒の関係はどうですか。
海野 教えることにエネルギッシュで、面倒見がいい人が多いです。初めて自分がモスクワに行った時、先生が空港まで迎えに来てくれました。また、私生活の相談相手でもあります。
Q:モスクワで生活されて、海野さんが好きになった曲、作曲家を上げていただけますか。
海野 ロシアの歌曲=特にラフマニノフ。美しく感動的な曲が多いです。なかでもエレジーというピアノ曲(幻想小曲集作品3より)はすばらしいです。民族の歌をたくさん聞いたし、長く住んでいることでそれら音楽のニュアンスを自然に表現出来るようになってきたと思います。
Q:日本のほうが住みやすいのではないですか。
海野 確かに便利ですが、音楽家にとってはモスクワのほうが住みやすいと思います。無名の学生のコンサートでも聴衆が多く常連がいて、客数も多いです。地方へのコンサートツアーなども先生のコンサートに学生がついていく形であり、地方のお客様はとても喜びます。
でも、びっくりするようなピアノがあったり、ホールもすごかったり。真っ赤や真っ白なピアノとか、コンディションが悪くて、弱音ペダルが利かないピアノもあるんです。調律もひどくて高音が出しにくかったこともありました。そういうところでも、動じずしっかり弾くことが必要なんです。でないと、批評が来ます(笑)。
Q:モスクワ音楽院のピアノはどうですか。
海野 指が真っ黒になったり、ささくれや棘があって鍵盤を触っただけでも怪我をすることも。以前、ベートーヴェンのワルトシュタインを演奏したことがあって、その曲はC(ド)が主音だけどそのCが狂っていて大変だった!まともなピアノはほとんどなくてタッチが重すぎたり軽すぎたりいろいろです。
Q:ロシアでの貴重な経験、逸話、面白い話などをお聞かせください。
海野 ロシア人は比喩表現が多彩で、私が言われたのは「あなたの指はおかゆのようだ」。これは、ぐちゃぐちゃしてしっかりしていないという意味です。同じ意味で「マカロニのような指」というのもあります。なぜならば、ロシア人はマカロニをぐちゃぐちゃにゆでるからです(アルデンテを知らない)。私が、パスタをロシア人にご馳走したときに、アルデンテで出したら、「これは生だ」と言われました。それから、電灯がない真っ暗列車!地方の友人宅に行ったとき車掌がカンテラもって切符を切りに来ました。モスクワ音楽院寮でも、地下の練習室に、猫のように大きなねずみが住んでいて、朝練習に行ったらピアノの鍵盤の上に寝ていました。ふたがないですから(笑)。
逆に、学生は無料で演奏会に気楽にいけますし、そういう面は楽しいですね。
Q:ロシア語はどうでしたか。
海野 最初の1・2年は苦労しました。たくさんの中にいるとよくわからなくて会話の中に入っていけないので、「君はさびしそうだね」といわれたことがあります。
Q:ロシアでの青春はどうですか?
海野 夏はとにかくナンパが盛んです。「一目あったそのときから、僕の人だと思った」と地下鉄の中で言われたことがあります。冬は、たくさん着込んでいるせいで活動が鈍るのかまったくないですね。ロシアの男性はすべての女性に対して積極的です。
Q:興味深い話をありがとうございました。最後に、海野さんの今後の夢をお聞かせください。
海野 ずっと音楽にかかわっていることです。今教わっていることを伝えていきたい。ロシアという国のよさ、特に報道ではわからないロシアの魅力を皆に知ってほしいと思います。
本日はどうもありがとうございました。
聞き手・構成:小出高明(ヴァイオリン)