2004年1月演奏会パンフレットより


新響のルーツ・生い立ちについて −石川嘉一さんに聞く

少し気の早い話ですが、2006年に新響は創立50周年を迎えます。年齢・性別・出身校・職業・地域などに関係なく音楽だけを求心力としたこの集団が、どの様にして生まれ成長してきたのか? これを機に今後いろいろな方から少しずつお話を伺っていきたいと思います。
先日、新響の最古参団員のお一人であり、40年にわたって活躍されてきた石川嘉一さんが、健康上の理由で退団されました。
今回まずは手始めに、石川さんに、入団当時を中心とした新響のお話をしていただきました。同席者は、石川さんにやや遅れて入団、その後一緒に新響チェロパートの一角を担ってこられた現役団員、新山克三さんです。

――石川さんは新響発足後6年目の1962年に入団。そこで芥川也寸志の「尋常ではない張り切りぶり」に出会い一気に新響に惹き込まれたという事ですが。

石川 それまで大学・社会人オケで出会った他の指揮者たちと芥川さんは違っていた。彼にはベートーヴェンがどの時代の人だろうと関係ない。スコアにはハーモニーが、リズムが、それにAllegro con brio(指示記号)が書いてある。それだけを基に、自分でその曲を“発明”して指揮していた。

それまでは、モーツァルトはこうあるべき、ベートーヴェンはこう弾くべき、というプールの中で泳いでいるような音楽しか知らなかったけれど、芥川さんと会ったら大海に出られた。太平洋で泳いでいるような気持ち…自由な新しい発見があった。ぼくはそこにたまらない魅力を感じたんだな。

新山 彼の作曲家としての感覚はストラビンスキー・プロコフィエフ・ショスタコービッチといった流れにあったわけで、それがまた当時の我々にはとても新鮮に感じられた。

芥川さんの指揮は自己流、だけど音楽そのものを良く知っていて愛している、いわば最高のアマチュアだったんだね。

――オーケストラそのものは如何でしたか?

石川 当時の普通の社会人オケは、本番直前にならないと団員・エキストラが揃わなかった。やっと全員が揃うゲネプロ(注1)なんかはその埋め合わせに朝の9時から夜の9時までやったりしていた

それに比べると新響は欠席・遅刻が少なかった。とにかく芥川さんがコワかったわけで(笑)、休んだりすると仲間に申し訳ない、と思うようになったのはもっとずっと後からかな。

新山 演奏会の曲目選びから練習場所の東京文化会館の確保まで、とにかく芥川さんのリードに団員が懸命についていく、という感じだった。要するに芥川さんがオーケストラの基礎を作ってくださった、という事よ。

石川 おかげで、労音と袂を分かってスッテンテンで独立した後も、都河さん(現コンサートマスター)をはじめ大学出たての優秀な団員がどんどん入ってくれて演奏のレベルが上がっていった。

あの頃はとにかく指揮者も団員もお客さんも、そして音楽も、みんな若々しかったね。

――中高年化を指摘される最近の新響には耳の痛い話ですが(笑)、そのような芥川さんとオーケストラとの関係はいつ頃まで続いたのですか?

石川 サントリー音楽賞受賞(77年)の頃までかな。その後少し両者の関係・雰囲気が変わってきた

新山 一言でいえば、新響が反抗期に入ったんだな。演奏も運営も実力がついてきて、芥川さんのコントロールから少し逃れたい、と思うようになってきた。

僕は海外転勤で5年間ほど新響を離れていたんだが、77年に帰ってきたときは特に運営が格段に良くなったと感じた。運営委員会組織の整備・出席率の向上…あとお金をきちんと団員から集められるようになっていたのに感心した。

石川 その頃から年4回の演奏会を芥川さん以外の指揮者でやる頻度が増えていった。年4回の演奏会を芥川さんで2回、他の指揮者で2回というペースだった。山田一雄さんが多かったね。

――わたしも80年代に入ってからの入団なのですが、あの頃は芥川さんとオーケストラの間で良い意味での緊張関係があった様に思います。

石川 芥川さんもその頃からJASRAC(注2)で猛烈に忙しかったようだけど、新響の練習にはずいぶん無理をしてでも出てくれていたね」「89年に芥川さん、91年にヤマカズさんと相次いで亡くなられてしまった。

――芥川さんとの最後の演奏会は88年の春、にファリャを上野文化でやったあと、続いてすぐ芸大旧奏楽堂の保存移転記念コンサートでしたね。この辺りは大変興味深い話題なのですが、80年代からは“近代史“になる事もあり(笑)、別の機会にさせていただきたいと思います。次に、特に印象に残った演奏会或いは指揮者を教えてください。

石川 まずは創立10周年記念のベートーヴェン・チクルス。66年の9〜12月に4回の演奏会で全部の交響曲を演奏した。当時の新響としては画期的。もう8・9番などどうやって弾いたら良いか、管弦楽がどの様に鳴るのかぼくらにはわからなかった。芥川さんだけが頼りだったね」「この時のプログラムがこれなんだけど、内容がとても充実していて、“新響”の名前の由来なども書いてある。

――この“10年のあゆみ”を読むと、芥川さんは旧N響の名前だからと当初反対していたようですが…。“それ以上に立派なオーケストラになればよいのだ、と言う人たちの意見でこれに決まりました”、と書いてありますが、ホントによかったのかなあ(笑)。

石川 初めてマーラーの1番をやった時(72年)は、芥川さんが最初の練習で“新響はやっとここまで来ることが出来た”と演説をしたことがあった。皆シンとして聞いていたよ。演奏そのものは事故も多くて余り良い出来ではなかったけど。

芥川さん以外の指揮者で初めてやったのが、第20回定演(70年)の外山雄三さんだったかな。

新山 ヤマカズ(山田一雄)さんの最初の練習(79年)はショックだった。マーラーの5番。何をどう振っているのか良くわからないんだけど、音楽のすごさだけははっきりと伝わってきた。

あと、芥川さんでやったチャイコフスキーの“悲愴”。LP盤の録音が残っているんだけど、繰り返し聴きすぎて磨り減ってしまったよ。

――ヤマカズの登場は新響内部では伝説化していますよね。

石川 いま思い出したけど68年に一回だけ近衛秀麿さんに振ってもらったことがあった(第17回定演)。モーツアルト特集だったけど、音楽的にすばらしい指揮だった。

新山 コバケン(小林研一郎)さんは副指揮者だったから、結局演奏会の指揮はしなかったんだよね。(注3)

――次に邦人作品について

石川 そもそも新響が最初に日本人の作品をやったのが例のソ連演奏旅行(67年)の時。持っていったのが、伊福部昭の“交響譚詩”と芥川の“トリプティーク”で、比較的演奏しやすい、ということで芥川さんが選んだ。

――いずれも素晴らしい曲ですね。でもトリプティークは弾くのが結構むずかしい曲だと思うんですが…。

石川 新響で邦人作品を演奏することについては、今でこそ定着しているけど、当時はオーケストラ内部でもかなり喧喧諤諤の論議があった。初めて日本の交響作品展をやった時(76年)はもちろんだけど、サントリー音楽賞を取ったあとでもまだ残っていた。

新山 例えば、某氏の作品展の時など、初練習のあと多数の団員から“この先何ヶ月も練習するのは耐えられない”との声が出て、運営委員長が芥川さんに掛け合ったりしていた。

――さて、それでは今後の新響のありかた、進むべき道について、“長老”の方々(笑)からの講評・アドバイスをお願いします。

石川 昔、まだ新響がオーケストラ初心者の頃は、指導者の言うことを聞くのが一番近道だった。その成果が例えば、邦人演奏会であり、ストラビンスキー3部作一挙上演(73年)だった。

今は、大学オーケストラなどでも、一人の先生が指揮者をそれこそ何十年も勤めて引っ張っていく、といったケースは少なくなってきているよね。

新山 このまま毎回、客演指揮者と演奏していくのか、それとも誰かに常任をお願いするのか?一時期音楽監督を探す動きもあったが、自分は反対した。芥川さんに代わる人はいない、というのが理由。当分は自分たちでやっていくしかない。

――確かに、今さら演奏曲目や方針をオーケストラ以外の誰かに委ねられるのかは疑問です。他のアマチュアオーケストラでも技術的に上手なところが増えてきました。

石川 新響は、芥川さんがいつも言っていた、“アマはプロに出来ないことができる”・“演奏技術とは関係なく人を感動させることができる”、ということを実践していくべきだろうね。

新山 例えば、晩年のカザルスの演奏。 昨今のコンクールなら一時予選落ちだろうけど、音楽にはとても大きな感動がある。

石川 でも新響もここ10年でずいぶん上手になってきた。芥川さんが今生きていたら、びっくりすると思う。技術論と情熱論はいわば車の両輪。あとは舵をとる人たちがしっかりしていれば良い。

新山 今はその舵をとるのは自分たちしかいない。

石川 なによりも新響独自の音をつくっていかなくてはいけない。

――そのイメージは?

石川 一言でいえば、メリハリのある、ひとを感動させる音楽。 例えば、飯守さんでやったワグナー “ラインの黄金”の最後のハーモニー。ああいう音を出していってもらいたいよね。

――最後に、石川さんが新響の年次総会などで団員に対してよく呼びかけておられたのが…。

石川 “新響のために、知恵のある人は知恵を、お金持ちの人はお金を、ヒマのある人は時間を出していこう“、だったかな? 福澤諭吉の言葉の間接的な引用なんだけどね。

――その精神を今後も全団員で引き継いでいきたいですね。石川さんもこれから新響OBとして、ご鞭撻をよろしくお願いします。また50周年記念特集の時には昔話を根掘り葉掘り伺いに参ります(笑)。

付録:石川嘉一さんの“超私的”新響ベスト演奏

1)芥川也寸志 指揮: リムスキーコルサコフ 「シェーラザード」
   1971年サマーコンサート ソロ:Vn.都河和彦、 Vc. 新山克三
2)近衛文麿 指揮: モーツアルト 交響曲 40番・41番
   1968年 第17回演奏会
3)小林研一郎 指揮: スメタナ 「わが祖国より」
   1997年 第156回演奏会
4)山田一雄 指揮: フランク 交響曲ニ短調
   1991年 第132回演奏会
5)飯守泰次郎 指揮: ワーグナー 「指輪」ハイライト
   1998年 第162回演奏会
番外:山岡重信指揮のブルックナー交響曲4番(1975年)、石井眞木指揮の伊福部「タプカーラ交響曲」、J.ロックハート指揮のメンデルスゾーン「スコットランド」交響曲。その他もちろん、芥川指揮のロシアもの、ヤマカズさんのマーラー交響曲全曲も。

聞き手・構成  川辺 亮(ヴァイオリン)

(注1) ゲネプロ: ゲネラルプローべ(General Probe)本番前(通常前日)の総練習。
(注2) JASRAC: 日本音楽著作権協会。芥川氏が理事長を務めていた。
(注3)  実際は72年に芥川氏の代理で23回定演を指揮。


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