2006年1月演奏会パンフレットより


曲目解説 プログラムノート


三善 晃:交響三章

村井 功(ヴァイオリン)

 三善晃は1933年東京生まれ。3歳で自由学園・子供ピアノグループに入団し、翌年から平井康三郎に作曲、ピアノ、ヴァイオリンを師事した。やがて作曲家への意志を抱くようになった三善は、それでも最後の教育機関は音楽専門でないほうがよいという思いから東京大学文学部仏文科へ進み、そこで作曲家レイモン・ガロワモンブランに師事することとなる。そして、同時にアンリ・デュティユーの音楽を知ったことで自分の音楽の勉強の方向をフランスに見出した。在学中毎日音楽コンクール作曲部門に応募し、「クラリネット、ファゴット、ピアノのためのソナタ」が第一位に輝いたのは20歳のときである。
1955年にフランス政府給費留学生として渡仏。パリ国立音楽院にてアンリ・シャラン教授の和声クラスに入る。2年半の留学で、ヨーロッパ音楽の美も方法も自分自身のものではなく自分は自分自身の語法を生み出さなくてはならないと痛感した三善は1957年に帰国、東京大学に復学し1960年に卒業した。「交響三章」はこの年、日本フィル・シリーズの委嘱作として書かれたものである。
 「レクイエム」「詩篇」「王孫不帰」など三善晃の数多くの合唱作品は、合唱に携わる方々には至福の音に違いない。三善も自身の合唱曲の多さについて「日本語の音楽を、ど合唱人が希ったことの反映だと思う」と、合唱人との強い絆を語っている。
 1963年からは東京藝術大学、桐朋学園大学で後進の指導にあたり、桐朋学園大学では1974年から1995年まで学長を務めた。1996年から2004年3月まで東京文化会館の館長。1999年12月、日本芸術院会員に就任。2001年11月文化功労者に選ばれた。
 この間、尾高賞受賞6回をはじめ、毎日音楽賞、NHK作曲賞(2回)、IMC音楽賞(複数回)、芸術祭賞及び同奨励賞(ともに複数回)、芸術選奨文部大臣賞、日本芸術院賞、モービル音楽賞、東京都文化賞、NHK有馬賞、三菱音楽賞、サントリー音楽賞、NHK放送文化賞などを受賞。また、フランス政府から文芸オフィシェ賞、学術文化勲章パルム・アカデミック賞を受ける。随想集『やまがら日記』など著述多数。

 周囲の人たちに三善作品について尋ねると、すぐさま賛辞の言葉が返ってくる。なぜかと問えば、三善はアレグロの曲を書ける数少ない日本人作曲家だから、というのが必ずといってよい程その答えの中にある。確かに日本人作曲家の作品(邦人作品)には情念を綿々と綴ったような遅いテンポの曲が多い。というか、心地よいリズムが脈々と息づく音楽が稀有のように見受けられる。
 ここに、ひとつの週刊誌記事がある。記事のタイトルは「日本人はなぜアレグロの曲を書けないのか」。フルート奏者オーレル・ニコレ、作曲家の石井眞木、武満徹、福島和夫、湯浅譲二が船山隆の司会で音楽と時間について討議した内容を記事にしたものである。討議の中で各氏はこの命題について日本的時間と西洋的時間の違いを指摘し、それを直線的時間と円環的時間とか、連続的な時間と非連続的な時間という言葉で説明している。そして、このように討議が進むなかで武満徹の注目すべき発言があった。
 「僕も作曲家ですから、やはり一定の時間の中で自分を表したい。ところが、自分が実際に音に即して、自分のある想念というか、イメージを書いていくと、そういうきちっとした、たとえば西洋のビート拍の構造からどんどん音楽が逃げていってしまう。(中略)最初アレグロで書こうと思って、いろいろなリズムを工夫してやっていますが、どうもやっているうちに、これは借りもので、どうもうそをついているという気になってくる。」
 そして、アレグロの曲を書けない(書かない)日本人の作品は西洋の作曲家の作品とは“違う”だけで決してどちらがよいということではないと各氏は口を揃える。
 さて、三善の「交響三章」は3つの楽章で構成されているものの、第3楽章は緩と急の2つで成り立っているので、この作品は緩急緩急の速度構成と捉えることができる。♪=68のゆったりとしたテンポの第1楽章のあと、第2楽章は[Presto 四分音符=180]で疾風のごとく駆け抜ける。第3楽章はまた四分音符=60のゆったりとしたテンポに戻り、やがて[Molto Presto]四分音符=200まで高揚する。この際立ったコントラストは見事としかいいようがない。そして、これは作曲家としての自然発生的な過程を経てできあがったものと想像がつく。
 三善が敬愛してやまない作曲家矢代秋雄が三善のことにつきこう述べている。
「全く、彼は作曲するために生まれてきたような人である。彼ほど本能的に曲が書け、構成していける人は古今東西にも珍しいのではないかと思う。私が彼に圧倒されてしまったのも、その『本能的な音楽的創造性と構築性』――としか言いようのないもの――を、音のでないスコアから感じとったからである。」

「交響三章」で三善は7つの断片的な楽想を拡大、変形、増殖などの原型としているが、いわゆる「主題」ではない。三善はこれら7つの断片的な楽想につき、全曲にわたって次々と加えられてゆく要素で、徐々に性格が幾重にもなり、陰影を強め、相殺するような線と響きの仕掛けも、目論見のひとつであると述べている。

(譜例(1)〜(7)は省略しました)

 第1楽章はゆっくりした三部形式といえる。チェロの独奏と低弦によって提示される(1)は、基本的な動機ともいえるもので、この先の展開を期待させる。これに(2)、(3)が加わる。(3)は変奏される多種の対旋律の原型である。
 第2楽章プレストは作曲家がいうようにいわゆる形式というものがない。この楽章では新たに中心的(4)さらに(5)(6)が加わる。(4)と(6)は(1)から、(5)は(2)と(1)から生まれたといえる。
 第3楽章は(2)に属する動機(7)で開始される変奏曲である。この(7)も、全曲の中で一つの断片といったほうが近い。この楽章は(7)の変奏であると同時に、(1)〜(6)がつみ重なり、再現する楽章でもある。

参考文献
「遠方より無へ」 三善晃 白水社 1979.11.23発行
「ヤマガラ日記」 三善晃 河合楽器製作所出版事業部 1992.3.1発行
「ぴあの ふぉるて」 三善晃 毎日新聞社 1993.12.30発行
ミニチュアスコアOGT307 三善晃 交響三章 音楽之友社 2002.9.15発行
朝日ジャーナル 1883.4.15号
「告白的三善晃論」 矢代秋雄 フィルハーモニー 1963年3月号
「三善晃/交響三章・総譜」矢代秋雄 音楽芸術 1963年9月号

初演 1960年10月14日、日本フィルハーモニー交響楽団の現代邦人作品委嘱の第4作として、同オーケストラの定期演奏会で初演される。指揮は渡邉暁雄。同年の芸術祭奨励賞受賞。またユネスコのIMC(国際音楽評議会)で第2位受賞。

編成 フルート2(ともにピッコロ持ち替え)、ピッコロ1(フルート持ち替え)、オーボエ2、コールアングレ1、クラリネット2、バスクラリネット1、ファゴット2、コントラファゴット1、ホルン4、トランペット4(1番はD管持ち替え)、トロンボーン3、テューバ1、ティンパニ、タムタム〔大・小〕、大太鼓、シンバル(合わせ・吊り)、シンバル、小太鼓、ウッドブロック、中太鼓〔大・中・小〕、木魚、トライアングル、カスタネット、グロッケンシュピール、テューブラーベル、シロフォン、ヴィブラフォン、チェレスタ、ピアノ、ハープ、弦5部


ショスタコーヴィチ:交響曲第8番

桑形和宏(打楽器)

時代背景など
 ショスタコーヴィチは1906年9月25日に生まれ、1975年8月9日に68歳で亡くなっている。1906年と言えば、日露戦争終了の翌年である。前年のl905年には、ロシア第1革命の原因となった「血の日曜日事件」(のちに交響曲第11番の題材となった)が発生している。まだ「皇帝」がいたわけだ。1975年にはベトナム戦争が終わり、米ソ宇宙船がドッキングしている。沖縄海洋博開催の年でもある。

ショスタコーヴィチにはまった日々
 しばらく私事にお付き合いただきたい。17、8才の頃、交響曲第5番を聴いたのをきっかけにショスタコーヴィチに興味を持ち、お金の許すかぎりレコードを買った(その頃CDはまだない)。といってもその種類は少なく、コンドラシン指揮モスクワ・フィルの交響曲全集と、ムラヴィンスキーのライブ録音が頼りであった。
 レコードを聴く際にはスコア (総譜)がないと気が済まない私は、同時にスコアも購入した。今でこそ国内販で容易に手に入るが、当時は第5番と第10番のスコアしか国内では出版されておらず、値段の面も含めて苦労した。1,800円でお買い得気分を味わった本日演奏する第8番のスコア、手に入った時は本当に嬉しかった交響詩「ステンカ・ラージンの処刑」のスコアなど、今ではそのすべてが貴重な財産だ。
 何に感動していたのか。まず旋律が感動的であること、そして音楽が大きな流れの中で高揚すること、そして輪郭がはっきりとしていて力強いことであろうか。

新響でのショスタコーヴィチ体験
 新響に入団して23 年、これまでに第1番、第4番、第5番、第7番、第9番、第10番の各交響曲と、交響詩「10月革命」を演奏する機会に恵まれた。こんなにたくさん演奏することができて、新響に入って本当によかったと思っている。なかでも、第10番冒頭の一種独特の響きは、CD等では感じることができないもので、ソ連駐在経験のあるヴァイオリンの川辺氏と、「これがソ連だ」などと言って喜び合っていたことを昨日のことのように思い出す。

交響曲第8番と政治
 本日演奏する交響曲第8番は、戦争の真っ最中の1943年夏の作品である。演奏時間60分の大作を、わずか2ヵ月で書き終えたと伝えられている。
 さて、当時の戦況はどうだったのか。西部戦線では2月にスターリングラードのドイツ軍が降伏し、9月にはイタリアが隣伏している。太平洋方面では、ガダルカナル島での敗退やアッツ島玉砕などが起こっている。連合国側が優勢に回った頃の作品である。
 そのような社会状況と、曲が短調で始まって長調で終わるため、「悲劇の後には喜びと勝利が」的な捉え方をされている場合が多い。ショスタコーヴィチ自身も、「全体としては楽観主義的な人生肯定的な作品」と述べている。だが、逆と思える発言もある。
 ショスタコーヴィチの場合「ソ連」の作曲家ということで、その作品が時代の反映や政治がらみで語られることが多い。それらを知ることは大切かもしれないが、この曲には特に表題も付いていないことから、純粋に「ショスタコーヴィチの響き」として耳を傾けていただきたいとも考えている。先入観をなくし、何を感じるかは、我々演奏する側も含めて、その人次第でよいのではないだろうか。

 楽器編成は特殊楽器のないコンパクトなもので、おおいに盛り上がる部分と室内楽な部分との対比が素晴らしい。また木管楽器では1番奏者の活躍もすごいが、両端にいる楽器の活躍も見逃せない。コールアングレの第1楽章後半の50小節に及ぶ大ソロを筆頭に、ピッコロやバスクラリネットにも長いソロがある。コントラファゴットは大ソロこそないが、十分に存在感を発揮している。

第1楽章
 演奏時間約30分の長大な楽章。構成としては、第5番や第7番の第1楽章と構成が似ていると感じられる。即ちカ強く始まる→叙情的な部分が続く→おおいに盛り上がる→再び静まって回想的になる、という流れである。

第2楽章
 作曲家自身によれば、「スケルツォの要素のある行進曲」。3拍子の部分と4拍子の部分が交互に登場する。前後が長大なので、あっという間に終わる感じ。

第3楽章
 第3楽章から第5楽章までは続けて演奏される。第3楽章はABAの3部形式で、最後の4小節以外は延々と4分音符が続いている。この楽章を初めて穂いた時、「最初のトロンボーンとテューバはどこで息を吸うのだろう」と疑問に思った。最後のAの部分では、全金管楽器と弦楽器、そしてティンパニが弱音器を付けての強奏を行い、独特な音色を出している。

第4楽章
 大太鼓とタムタムが思いっきり叩かれたところが第4楽章の始まりである。ここまで聴くと、「この後どこまで盛り上がるのだろう」とも感じるが、音楽は静まり返っていく。弱音器付きで延々と続く低弦楽器が印象的。

第5楽章
 ずっとお休みしていたファゴットが登場するのが 3小節目後半。曲は淡々と進み、 一回侘びしげに盛り上がるが、最後は消え入って終わる。この楽章が明るいか暗いか、嬉しいか寂しいか、いかがでしたでしょうか。

参考文献
ショスタコーヴィチの証言 ヴォルコフ編 水野忠夫訳 中央公論社1980
ショスタコーヴィチ自伝グリゴーリエフ プラデーク編 ラドガ(虹)出版所 1933
作曲家別名曲解説ライブラリー15 ショスタコーヴィチ 音楽之友社 音楽之友 1993

作曲:1943年夏
初演:1943年11月4日 ムラヴィンスキー指揮 ソヴィエト国立交響楽団 於モスクワ
日本初演:1948 年11月19日、上田仁 指揮 東宝交響楽団 於日比谷公会堂

楽器編成:フルート 4( 3 、4番はピッコロ持ち替え〉、オーボエ 2. コールアングレ、Esクラリネット、クラリネット2、パスクラリネット、ファゴット3(3番はコントラファゴット持ち替え)、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューパ1、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンパル(合わせ、吊り)、 タンブリン、タムタム、トライアングル、木琴、弦5部


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